白谷達也(しらたにたつや)
1945年、福岡県大牟田市生まれ。1970年、早稲田大学法学部卒。同年 朝日新聞社入社、出版写真部配属。 「アサヒグラフ」、「朝日ジャーナル」、「週刊朝日」、「朝日新聞土曜版」などを舞台に活躍。2005年 朝日新聞社を定年退職。 写真展に『絵日記』 (1975年、 ギャラリー・キューブリック)、『唐川びとへ』(2009年、富士フイルムフォトサロン)。共著に『にっぽんコミューン』(アサヒグラフ編、朝日新聞社、1979)。 『セラミックロード 海を渡った古伊万里』 (文・上野武、朝日新聞社、1986)、『国会議事堂』 (文・松山巌、朝日新聞社、1990)、『唐川びとへー精霊たちの庭 出雲・唐川』 (文・古澤陽子、ラトルズ、2009)など。2011年より2022年まで、稲門写真クラブ代表幹事に就く。
白谷達也君の訃報
昨年の12月6日、朝日新聞写真部OB会からの訃報が転送されてきた。
「OBの白谷達也さん(出版写真部)が、11月25日亡くなられました。 78歳。食道がんの治療中でした。 容体が急変したとのことです。12月4日、近親者で葬儀が執り行われました。謹んでお悔やみ申し上げます」。
知らせてくれたのは、朝日新聞写真部OBの仙波理君。 11月に本駒込で開いた私の小さな個展に毎日新聞写真部の後輩たちと一緒に観に来てくれた。毎日の後輩たちと顔をあわせるのは久しぶりなので、画廊近くの居酒屋で酒を酌み交わすことになった。そこに仙波君も同席した。 仙波君は白谷君と私の関係を知らなかった。しかし、会社は違っても同じ出版局である。 もしかしてと思い、訃報を転送してくれたのである。直後に、同じ朝日新聞の林正樹君からも電話があった。林君は白谷君の後輩である。彼にとって、白谷君は「兄のような存在」だったという。
白谷君が食道がんを発症したことは、11月6日、稲門写真クラブ代表幹事の増田智君からのメールで知った。
「実は先日白谷さんから電話がありました。食道がんになったそうです。 おそらく手術になるだろうという話でした。 どの程度の進行状態かはまだ不明とのこと。もう1度平嶋さんと白谷さんの対談をやりたかったのですが難しいかもしれませんね。取り急ぎお知らせします」。
白谷君と私の対談というのは、昨年の会報に載せた「OB放談あの日、あの時、そこにカメラがあった」のことである。企画は増田君と副代表幹事の塩澤秀樹君によるもの。対談を行なったのは2021年12月2日、場所は横浜駅の近くだった。
白谷君は奥さんが病気療養中であり、おそらくその介護の負担から、自分自身も体調を崩すようになった。 代表幹事を増田君と交代したのは、かねてからOB会の運営を若い世代へ引継ぐ必要を感じていたからだが、直接のきっかけになったのは、白谷君自身の体調不良にあった。
対談が実現したのは、健康が回復しつつあったからである。しかし話し始めて1時間ほどすると、どことなく疲れたようすがみえた。大学時代のことを一通り聞いて、これから朝日新聞の出版写真部時代に話題を変えたところだった。無理をすることもないと思い、対談はそこで打ち切り、もう1度会うことを約束したのだが、ぐずぐずしているうちに、白谷君は帰らぬ人になってしまった。
1967年9月。大切に使い込まれたおくどさん。天神峰。
撮影: 白谷達也
1967年9月の三里塚
「小川プロダクション『三里塚の夏』を観る」 (太田出版)というDVDブックがある。 刊行は2012年。企画と編著は鈴木一誌さん。鈴木さんは杉浦康平門下のブックデザイナーだが、 蓮見重彦を師と仰ぎ、映画批評家としても知られる。 彼から頼まれて、「闘う農民像の系譜」という拙い論考をこのDVDブックに書いた。
成田闘争の前史には、千葉県の農民闘争の伝統があったのではないか。平嶋さんは生まれも育ちも千葉だから、なにか心当たりがあるでしょう。 成田闘争そのものについては、書いてくれる人はいくらでもいるが、その前史の考察となると、適当な執筆者が見あたらない、というのである。
黒澤明の「七人の侍」は、農民が落武者を雇い、村を略奪する野武士に挑む物語である。そのなかに「百姓にはがまんするしか方法はない。長いものに巻かれるしかない」という台詞が出てくる。成田闘争を近世の木内惣五郎 (佐倉宗吾)の一揆、中世の平将門の乱、さらに遡って「常陸国風土記」の箭括麻多智(やはずのまたち)という伝説的人物の新田開発に重ねてみたらどういうことになるか。負け犬的な農民像は必ずしも歴史的事実に即していないのではないか。それを書いてみたのである。
送られてきた初校ゲラをみると、なんということだろう、写真が6カットついていて、そのうちの4カットに白谷達也のクレジットがある。撮影年次はいずれも1967年9月とある。白谷君が大学3年のときである。撮影地はいずれも成田市三里塚の天神峰。刈り入れた稲をハサ掛けする農家の人たち。おそらく、その家の屋敷内と思われる藁葺き屋根の台所。その台所内部の米釜の掛かるかまど。そして、もう1カットが、空港予定地を示す航空写真の複写である。
どこにでもある農家の日常の景色といってしまえばそれまでかもしれない。1960年代には私の育った村も、私の家も、そんなふうだった。写真がとくに上手く撮れているというわけでもない。しかし、白谷達也の成田闘争への眼差しの在り処を図らずも示しているのではないだろうか。そこが興味深いのである。
鈴木さんに問い合わせると、小川プロは「三里塚の夏」の撮影を始めたころ、先行取材していた白谷君からあれこれと世話になることがあったらしい。その話を聞いて、白谷君に連絡をとり、そのころ撮影した写真を提供してもらったのだという。どんな世話か分からないが、同じ志を持つ仲間としてあれこれ協力しあったのだろう。いかにも白谷君らしい。
出雲唐川のユートピア
本棚に白谷達也のクレジットのある本が2冊ある。
「にっぽんコミューン」(朝日グラフ編、朝日新聞社、1967)と「唐川びとへー精霊たちの庭 出雲・唐川」(文・古澤陽子、ラトルズ、2009)である。
「にっぽんコミューン」は「アサヒグラフ」の連載を書籍化したもの。
全共闘運動やベトナム反戦運動のあと、既存の価値観とか国家や社会の制度に飽き足らない若い世代を中心に、日本の各地でさまざまなコミューン(共同体)が作られた。そればかりではなく、「新しき村」や「山岸会」など、戦前に設立された既存のコミューンがいくつも存在していた。
そのうちの14箇所を、編集者(記者)と共に体験取材したのである。この連載が白谷君の企画だったことは彼から聞いていた。
映画『イージーライダー』にみられるヒッピー文化の時代でもあった。コミューンの思想もそうした動向の1つとみられる。しかし、白谷君がこの企画を提案した背景には、学生時代に成田闘争を取材した試行錯誤の体験がなにかしらあったのではないか。 それを改めて聞いてみたかったが、それも叶わなくなってまった。
「にっぽんコンミューン」 から
撮影 白谷達也
「唐川びとへ」は島根県出雲市唐川町を取材した写文集である。
あとがきは白谷君と古澤陽子さんの連名になっていて、それによれば、「初めて唐川に足を踏み入れ」たのは、1998年だというから、白谷君が53歳のときである。出版写真部の部長か副部長だった時期だと思うが、どちらにしても内勤の中間管理職で、社内的な職制では現場取材は本分ではないはずである。
生涯を1カメラマンとしてまっとうしたいという意思が彼になければそんなことにはならない。 「唐川びとへ」の刊行は2009年だから、10年がかりの仕事だったことになる。最初は「アサヒグラフ」の取材だったが、あとの七年は私費を投じての自主取材だったとも書いている。
唐川はお茶が特産の山間の集落。『出雲国風土記』の時代に遡るとされる韓竈(からかま)神社があり、神楽舞や獅子舞がいまも盛んである。副題の「精霊たちの庭」は、唐川の人々が古代からの土着信仰を心の拠り所に暮らしてきた歴史を示唆する。
同じあとがきに「そこには見たこともない人と人との絆があり、山の精霊たちとの自然な交感さえもがあるようにみえた」と書いているのが見落とせない。「人と人との絆」をもたらすものとは相互扶助の自治組織のことだろう。近世から近代に馴染深い民俗語彙に置き換えれば「結(ゆ)い」ということになる。それを「見たこともない」と書いている。どういうことなのか。ユートピア(理想郷)としてのコミューン(共同体)が、未来でも過去でもない、いまこの唐川の地に現存することに衝撃をうけたのである。
特産の唐川茶を加工する製茶工場は15軒が共同経営している。 運動会は54戸のすべてが参加。 産土神である韓竈神社の大祭とか遷宮ともなれば全戸参加はいうまでもない。
笑顔がある。しかも屈託がない。 「唐川びとへ」のどのカットをみてもそうなのだ。不思議なくらいである。 大人も子供も白谷君の向けるカメラに心を許しているのだ。油断しまくっているといってもいい。写真は写される対象ばかりでない。 写す主体の人柄や思想をおのずから浮き彫りにする。
「唐川びとへ」 から
撮影 白谷達也
私の手元にある写真家白谷達也を偲ぶものは、「『三里塚の夏』を観る」、「にっぽんコミューン」そして「唐川びとへ」 のわずか3冊しかない。しかしこの3冊は、あくまでも私にとってということだが、彼の学生時代、その後の朝日新聞時代のカメラマンとしての軌跡を物語る点と線のように思えてならない。
白谷君は一体何にこだわっていたのだろうか。この3冊に共通するのは、弱い者同士が相互扶助の自立組織により明日を切り拓こうとする思念である。 先にも書いたが、前代の民俗語彙に置換すれば、結いの組織すなわち「人と人との絆」ということになる。
それを現実に目撃した証人として記録して残そうとしたのである。
夏の甲子園大会での再会
1974年8月、夏の高校野球の取材で、白谷君と6年ぶりに再会した。私は毎日新聞社の西部本社写真部 (北九州市)から東京本社の出版写真部に転属したばかりだった。このとき、ふつうは、私もその1人なのだが、400ミリの望遠レンズで撮影するところを、白谷君はさらに焦点距離の長い600ミリを構えていた。私は運動が苦手だったこともあり、スポーツ取材は好きになれなかった。 白谷君は私とはちがって、実に生きいきとふるまっていた。目標がなければ、仕事に夢中になれない。ふと思いついたのは、白谷君の真似をして1回り長いレンズを使い、スポーツ取材の目標をピント合わせとシャッターチャンスの訓練の場にすることだった。
白谷君が1回り長い望遠レンズを使っていたのは、プレー中の選手の姿と動きを表情豊かにとらえるためである。しかし、そのころはオートフォーカスの装置はまだ開発されていなかった。焦点距離が長くなると、ピント合わせとシャッターチャンスがずっと厳しくなる。私の眼には、白谷君や朝日新聞出版写真部の人たちが、読者の期待に応えるために新たなスポーツ写真の地平を果敢に模索しているように見えた。
フリーのカメラマンなら失敗すれば仕事がなくなる心配がある。
しかし、社員カメラマンの場合はそんなことにならない。3日も申し訳なさそうな顔をしていれば、波風は自然に治まる。新人時代の忘れがたい教訓がある。誰もが撮るような月並みな写真ではなく、自分らしい写真を撮れ、ということである。言い方を換えれば、成功と失敗は裏腹の関係で、失敗を恐れたらつまらない、勇気を持て、ということになる。
それ以来、スポーツ取材には、白谷君の真似をして、1回り長いレンズを使うようになった。とうぜん、撮り損ないは増えた。しかし、ピークの瞬間は駄目であっても、その前後のシーンを掴みとれるようになった。レンズを1回り長くしてすぐ分かったのは、格段の集中力とレンズを使いこなす工夫が必要だということ。それに加えて、眼に見えたものを撮るという考え方はスポーツ写真には通用しない、見る前に撮れ、ということだった。
さらにいうなら、スポーツ写真に通用しないものは、報道写真にも風景写真にも通用しないのではないか、ということである。動きの早い瞬間的な姿形は肉眼では把握できない。 それでは、静止している事物の場合、そのどこまでを視覚的に把握し写し撮れているのかといえば、それも心許ない気がする。 写真が絵画と違うのは、目の前にある事物の1つひとつ、その相互の関係性の考察を曖昧にしたままでも、ファインダーの4隅を決めてやりさえすれば、表現として成立してしまうところにある、ということではないだろうか。
白谷君は、新聞や雑誌業界のなかで、理想的な報道カメラマンだった。いわゆる社カメ(スタッフカメラマン)は事件現場の取材だけではなく、スポーツ写真から人物写真、さらに物撮りや絵画の複写にいたるまで、なんでもこなすのが建前になっている。彼はなんでもこなせた。とりわけ、スポーツは得意だった。晴れ舞台ともいえるオリンピック取材に少なくとも4回も派遣されているのはその証しともいえる。
「宮本常一 写真日記集成」の暗室作業
白谷君は定年退職するまで出版写真部に在籍し、部長職のかたわら、現場取材を続けている。私はどうだったかというと、50歳のときに出版写真部をはなれた。デスクのときは1ヵ月のうち10日は現場に出ていたが、部長になるとそういうわけにいかなくなった。すると出版写真部にこだわる意味もない。言われるがまま、制作部という用紙と印刷の管理部門に移動し、さらにビジュアル編集室という編集部門に移動することになった。
ビジュアル編集部では「世界遺産」 (全12巻)と「別冊カメラ毎日」(季刊)を担当した。管理職の仕事は味気ないから、自分でも本をつくることにしたのである。 といっても編集の仕事は経験したことがない。そこで大学写真部の同期だった伊藤幸司君に助けを求めた。
彼はフリーの編集者として身を立てるいっぽう、宮本常一が主宰する日本観光文化研究所(観文研)で、雑誌「あるくみるきく」の取材・編集に携わっていた。私は伊藤君と彼の同僚の野地耕治さんのうしろ姿を見ながら、50の手習いで編集の仕事を覚えていった。
私の新聞社時代の最後ともいうべき大きな仕事は「宮本常一写真日記集成」の編集だった。きっかけは、「宮本常一は1枚の写真を前に、その背景にある人の暮らしについて1時間も2時間もかけて語りつづける」という伊藤君の話だった。 しかも、宮本常一は自分でも生前におよそ10万カットの写真を撮っているというのである。
撮影フィルムは宮本常一の郷里である山口県の周防大島に整理・保存されていた。その撮影フィルムを伊藤君と私で目を通し、私がプリントし、伊藤君がキャプションを書いた。宮本常一の写真は、カメラ雑誌の月例コンテストふうな視点では、とても上手な写真とはいえない。 しかし、その名作でも傑作でもない写真が私たちの心を打つのはどういうわけなのか。解説は何人かに依頼した。その1人が森山大道さんである。宮本常一の写真の素晴らしさを理解してもらえそうな“報道写真家”として、真先に思い浮かんだのが森山さんだった。
毎日新聞社にはそのころ引き伸ばし暗室がまだ残っていた。プリントしたのは5400カット。 それを2セットつくった。1セットは印刷原稿用、1セットは郷里への寄贈用。朝9時半に出社、夜8時まで暗室に籠った。1日50カット、3ヶ月のつもりが、別の仕事が入るなどして、プリントを終えるまでに半年ほどかかった。
私の入社した当時は、新聞はまだモノクロだった。というよりも、写真といえばモノクロ写真のことで、引き伸ばし作業が重要視され、写真は暗室でつくるものだとまでいわれた。出版写真部のときは部長職になってからも、1日に1度はプリント作業をした。
私にとって暗室は写真の原点ともいえた。
5400カットものプリントは後にも先にも経験がない。この暗室作業が報道カメラマンとしての最後を飾る花道になった。ふりかえってみれば、私が宮本常一の写真編集に取り組んでいたころ、白谷君は先にも書いたように、「唐川びとへ」の撮影取材に取り組んでいたのである。
早稲田大学写真部の旧友たちとの街歩き
私が毎日新聞社を退社したのは2009年である。その翌日、柴又あたりをぶらつくつもりで、最寄りの京成津田沼駅から電車に乗った。ところがうっかり乗り過ごしてしまった。そこで考えなおし、大森海岸まで行って、そこから旧東海道を品川まで歩くことにした。久しぶりに写真を撮っているとなんとなく気分が高揚した。もう1度東京を歩いて写真を撮って廻りたくなった。
その翌年、福田和久君 (45年卒)が会社を退職した。彼と同期の宇野敏雄君の話では、街歩きでもしようかと言っているという。そんなことなら、柏木久育君(48年卒)にも声をかけて、4人で街歩きをすることにしたらどうか、ということになった。
現在の街歩きのメンバーは9人。 街歩きの会は2024年2月現在で122回を数える。
白谷君が奥さんの介護で精神的に悩んでいると聞いたとき、この街歩きの会に参加してみないかと誘ってみた。むかしの仲間と会うことで、多少なりとも気分転換になりはしないかと思ったのである。奥さんの介護がよほど大変だったのだろう、そうはならなかった。
現役のカメラマンだったころ、白谷君と私はお互いの掲載誌面をよく見ていた。 気になる写真があれば撮影者のクレジットを確かめる。そうか、やはり白谷君か、いい仕事をしているじゃないか、となる。とくにライバル意識があったわけでもない。 しかし、彼には笑われたくなかった。
会社勤めを辞めたあと、街歩きの写真を撮っているときも、それは現役時代と少しも変わらない。どこかで彼が見ているという妄想が私を緊張させる。そうなると年寄りの暇つぶしではすまなくなるのはどういうわけか。
白谷君は早稲田大学写真部時代からの同志だった。彼を亡くした喪失感は大きい。それは私ばかりではないだろう。だが、心配することはない。彼はすっかり楽になったにちがいない。これからはもう悩むことも苦しむこともないのである。
文 平嶋彰彦(ひらしまあきひこ)
朝日新聞の旧社屋時代からこよなく愛した有楽町JRガード下。左から白谷達也。作家の松山巌、岡田初彦(昭59年卒)。2012年7月23日
撮影 平嶋彰彦
東日本大震災の現地取材で、池田守(昭49卒)家具工房(福島県川内村、獏原人村近く)を訪れる。左から増田智(平3年卒)、白谷達也、浅野修司(昭48年卒)。2013年6月21日
撮影 増田智
[平嶋略歴]
1946年、 千葉県館山市生まれ。 1969年、政治経済学部卒。同年、 毎日新聞社入社、西部本社写真部配属。 1974年、 出版局写真部転属。 1999年、 ビジュアル編集室転属。 写真展に『たたずむ町』 (世田谷美術館、1988)、『東京ラビリンス』 (ときの忘れもの、 2020)、『東京ラビリンス 20092023』(ときの忘れもの、2023) 共著に 『昭和二十年東京地図』 (文・西井一夫、 筑摩書房、1986)、 『町の履歴書 神田を歩く』 (文・森まゆみ、 毎日新聞社、2003) など。 編集担当の著作 (いずれも毎日新聞社) に 『宮本常一写真日記集成』、『私的昭和史 桑原甲子男写真集』 など。 退職後、大学写真部 OBたちと街歩きの会を始める。 会員は9人、 2024年10月現在で128回を数える。