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- 飯窪敏彦さん(昭和40年卒)からの「棟方志功 鎌倉-青森」写真展のお知らせです。1/14から銀座で開催。
- 現役早慶展のお知らせ 2024.12.16(月)から30(月)ソニーストア銀座
- 「稲門写真クラブについて」を更新しました。
- 藤森秀郎さん(昭和34年卒)が亡くなられました。
- 漆原勝造さん(昭和42年卒)がJPA大賞を受賞されました。
- 第16回写真の早慶戦 投票結果のおしらせ
- 現役生から早稲田祭展のお知らせ 11/2(土)から3(日)
- 現役新人展開催のお知らせ(10/8火曜〜13日曜、11:00〜20:00まで 大学学生会館の地下2階)
- 第16回「写真の早慶戦」のお知らせ
フォトギャラリー
『第16回写真の早慶戦』(『生きる~にんげんもよう』&自由部門)
『第15回写真の早慶戦』(『令和を歩く~My home town~』&自由部門)
『第14回写真の早慶戦』(『平成の思い出』&自由部門)

テーマ部門「平成の思い出」 2011.03.11 東京の空/東京・西早稲田 昭60卒 塩澤 秀樹
あの日、東京を覆ったドス黒い雲。
なんだ ! あの雲は !
カメラを掴んでマンション屋上に駈け上がる。
揺さぶられた大地の埃が舞い上がったのだろうか?
初めて見る平成の空。

テーマ部門「平成の思い出」 平成の傷痕/茨城県/ 昭34卒 古怒田 潔
利根川の左岸、土手に沿った道が延々と続く。対岸の千葉県側の整備された国道と異なり、2車線の、場所によってはやっと車同士のすれ違いができる程度の曲がりくねった道で、河原で放し飼いになる牛が横断中は、信号もないのにしばらく通過する牛の行列をのんびり待つこともある。
私が埼玉の自宅から100kmほどの、茨城の鹿島灘にある工業地帯の開発の仕事に勤務していたころ、単身赴任も10年を超え、金帰月来で往復した道だ。初めの頃は未舗装で使用できず、水戸街道など迂回を余儀なくされ、ようやく快適に走れるようになったころ、東京へ帰任となった。何もない砂浜に大型船が入る掘込み港湾がつくられ、工場が進出してきた。順調な工場稼働も長くつづかず、私が退職するころ、石油危機がもたらしたダウンサイジングという名の人員整理のあらしが吹き荒れた。
安全操業が生命の工場勤務では、交通事故を起こさないことが、従業員の最大の仕事であったため運転技術は向上した。いまでも海を見に行く最短のルートで、鹿島灘の茫漠たる海岸線に万葉の香りを訪ねてカメラ紀行をきめ込む大事なプライベートロードとなった。
2011年の大震災のあと、4?5年はこの道も液状化の影響で、道路と何本かの橋のレベルに段差が生じたため通行止めとなった。すっかり旧に復した道路を走っていると夕暮れ時、道路にランダムに光の輪が揺れ出した。復旧工事のあと微妙な亀裂が出て補修したものだろうか、落ちてゆく夕日の中、過ぎ去った人生の悔恨をいやすかのように美しく輝いていた。

テーマ部門「平成の思い出」 2012.08.03 陸前高田/岩手・陸前高田市 昭45卒 白谷 達也
車のナビが陸前高田市役所を示したとき、「あれっ! ナビがおかしい!」と慌てて車を止めたことを思いだす。
そこにあるはずの風景が無かったからだった。被害は僕の想像を越えていた。そこで見たものは、破壊された市役所の残骸と、津波が海まで運んでいたのだろうフジツボに覆われた車だけだった。

テーマ部門「平成の思い出」 大地の狼煙/福島県二本松市東和地区 昭46卒 石崎 幸治
東日本大震災からもう8年が経とうとしている。
高速道路のサービスエリアで配られる道路地図をみると、今でも福島県の一部が帰還困難地区としてピンク色に塗り分けてあり、区域内原則通行不可との注意書きがある。帰還も通過もできないならば、指定された面積の国土を失ったと同じことである。原子力は「絶対安全なクリーンなエネルギー」という標語が何と虚しいことだったことか。
福島第一原発から20km圏内の計画的避難地区に指定された飯館村など以外の地域はどうなっているのだろうか。今すぐに健康を害するほどではないと強制避難地区に指定されなかったが、若い女性や妊娠中のお母さんの自主避難が相次いだ。故郷を一時的にも捨てる苦悩は計り知れない。
原発事故により放射能をばら撒かれた地域では、農業継続は無理かもしれないということもあったようだ。しかし土を捨てず、農を諦めず、農業の復興を目指して、放射性セシウムによる汚染に有効性が確認できた有機農法に取り組む人たちがいる。
この写真は土器のダクトを使った籾殻燻炭(もみがらくんたん)焼きの記録である。地震国日本には原発はいらないという農家の人たちの強い願いがダクトの形に込められている。(2018年8月 福島県二本松市東和地区で)

テーマ部門「平成の思い出」 ゴルフ場跡地/東北地方 平3卒 増田 智
震災の影響と若者のゴルフ離れもあり、東北地方の山中にあるゴルフ場が廃業しました。
そこを買ったのは東京の太陽光エネルギー会社でした。コースを埋め尽くしたたくさんの太陽光パネル。
何とも言えない光景でした。

テーマ部門「平成の思い出」 浜風の里/青森・下北半島 昭40卒 小川 忠博
風力発電のコスト(kWh)は13?21円、そして、水力 11円、太陽光 13?16円、 化石燃料 13?29円、原子力は10.3円(燃料再処理・廃棄物処理施設稼働せず、試算のみ)です。資源エネルギー庁 2015発電コスト検証WG (日本原子力文化財団HP)
世界の電力供給に占める自然再生エネルギーは24.5%、その4%が風力発電です。(青森・下北半島で)

自由部門 祈り/エチオピア(ラリベラ岩窟教会外にて) 昭31卒 稲村 不二雄
エチオピアはアフリカの中で唯一他国の侵略を受けておらず、アフリカ諸国から自立性のある国として尊敬されている。主な宗教はキリスト教で、独自のエチオピア正教として根強く布教されている。エチオピア北西部、標高3,000mにあるラリベラ岩窟教会は12世紀に24年を費やし、岩をくり抜いて作られた世界でも珍しい教会で、1978年世界遺産第1号に選出された。
熱心な信者たちはエレサレムの聖地巡礼を目指しているが、イスラムに侵されたエレサレムを諦め、現在はラリベラを第2の聖地として目指し、1月7日のクリスマスには大勢の信者が集まる。
ラリベラの住人たちには熱心な信者が多く、普通の日でも白い衣装を着ている人が多数街を歩き、朝晩のお祈りは欠かさない。
12棟ある岩窟教会のなかでも一番中心の「聖救世主教会」の内部を見学しようと、ガイドさんの案内で急な階段と岩をくり抜いた狭いトンネルを抜けて地下に降りる。内部ではまだ祈祷が続き、ミサの声が外にも聞こえてくる。
わずかに漏れ聞こえてくるお祈りの声に合わせ、中に入れなかった女性の一人が岩の上で一生懸命我を忘れて祈りはじめた。非常に印象的な姿だった。
尚、ミサなどの行事が無いときには信者でなくても内部に入れるが土足厳禁。岩の床には何年前から使われていただろうかという絨毯が敷き詰められているが、これが雨季にはダニの温床となり、外部からの人は靴下の上にビニール袋を被せ、しっかり止めて歩かなければならない。
信者たちは裸足で平気で歩いている。

自由部門 ヒエ〜、怪獣だあ〜〜/石神井公園 昭33卒 山崎 仁郎
と言ってもここは東京練馬区の都立石神井公園。整備の行き届いたこの公園に怪獣 !?
よく見てくださると分かります。正体は『木』なんです。でも、なんで公園の木が怪獣の姿に大変身しちゃうの ?大口を開けた猛犬そっくり! おーっ怖 !!
説明しましょう。結論から言えばこの「怪獣そっくりさん」の“作者”は、昨年(2018)9月30日紀伊半島に上陸し速度を速めて北上し、関東地方を強風にさらした台風24号です。言うなれば「台風24号殿の傑作」とも言えましょうか。
拙宅のある練馬地区では、翌10月1日午前2時35分の瞬間最大風速が南西の風29.6m/sを観測、我が家は揺れているように感じる猛風でした。
私は健康のための毎朝ウォーキングを、石神井公園一周と決めています。真夜中の嵐が嘘のように晴れた台風一過の1日朝、いつもと同じコースを歩くと、公園の樹木数十本が折れたり、倒れていたりと大変な惨状です。私は無残なその姿を撮りまくりました。この「怪獣そっくりさん」は、その時の一枚です。
大自然の驚異というべきか、それとも巨大台風のプレゼントといってもいいのか・・・・。迷うところです。
怪獣に大化けしたこの樹木は、樹齢90年になる椹(さわら)というヒノキ科の木です。強風との戦いに精根尽き果てて倒れるとき、根っこの雑草を道連れにして持ち上げたため、その雑草がまるで猛犬の頭の毛のように見え、大口を開けて吠えているようです。
ところで公園名の石神井は、昔この地に井戸を掘った時、土中から出た青い石を石神として祀り、井戸から出たことから石神の井を合わせ「石神井(シャクジンイ)」と言っていましたが、のちにこの呼び名の「ン」が抜け「シャクジイ」に変遷したとか。
大木の「怪獣そっくりさん」も神の仕業かもしれません。

自由部門 金髪と瞳と/ソロモン諸島にて 昭34卒 藤森 秀郎
ルネ・クレマンの傑作「禁じられた遊び」というフランス映画があった。
この主人公、金髪の少女が戦火の中、恐怖と悲しみに暮れ、兄と慕うミッシェルの名を呼び続ける、けなげな瞳 いっぽう強烈な太陽が照りつける南太平洋の子供たちの光り輝く金髪と愛らしい 瞳ともどもは私の心を捉えてはなさない。
南太平洋メラネシア人(ソロモン、パプア・ニューギニア、バヌアツ、フ ィジー、ニューカレドニア等々)は多民族ゆえ混血による金髪が多く、とりわけ子供たちに顕著だ。
ガダル・カナル島で撮影の折り、現地のメラネシア人に問うと、詳しいことはわからないが、成長するにしたがい、金髪から茶褐色へと変色するんだという。

自由部門 アジアの夜明け/インドネシア 昭35卒 出井 伸之
ここはインドネシアのジャワ島にある世界最大の仏教寺院遺跡「ボルブドゥール寺院遺跡」です。夜明けとともにコーランが鳴り響くのを聞き、アジアという地域の多様性、複雑性を体感しました。
アジアは、様々な人種・宗教・言語・文化が混在している地域です。世界経済の未来を考えるうえで、アジア地域の発展が注目されています。
日本や中国に加え、最近では、この写真の撮影場所でもあるインドネシアやインド、パキスタン、バングラディシュ、フィリピン、タイ、ベトナムなど、アジアの多くの国が新興国として急速に成長しています。

自由部門 夏きざす/熱海港 昭38卒 秋岡 邦夫
2年前同期の写真家今井隆一君に教えられ、中谷吉隆さんの「フォトハイク」に出会い"写真と俳句の融合"の魔力に魅せられて虜になっています。
・お互いの説明でない補完関係、1+1=2の足し算から、付かず離れずの掛け算になればと、目下勉強中です。
・今回の写真は熱海港の日暮れの情景です。刻々と変化する太陽光をモチーフに撮ってみました。俳句は
*夏きざす 潮待つ日暮れ 影増して
うまくコラボレーションしているでしょうか? お読みいただきありがとうございます。

自由部門 アンディアーモ(さあ行こう)/北イタリア バローロ 昭39卒 吉田 勇
昨年(2018)3月、私ども夫婦は何とか無事に結婚50年を迎え、家族とささやかな祝いの席を持ったとき、1968年産のバローロ(イタリアの有名ワイン)を中年になった娘と息子から贈られた。私ども夫婦同様50年を生きてきたヴィンテージワインだった。色も香りも豊かに熟しており、涙の出る程の旨さだった。
以前、50周年記念に北イタリアに旅行すること、名ワインの産地バローロ村も訪問することを話していたので、ワインマニアのルートで苦労して見つけてくれたものだった。
そして7月。行き慣れたイタリアに向けて旅立った。旅の友は小型のミラーレス一眼に28-200mm相当のズームレンズ。
ドロミテ山塊の岸壁、氷河、青い湖を巡り、スキーリゾートのコルティナ・ダンペッツオ、チロルに近い山あいの街ボルツァーノ、オペラ・アイーダを観たヴェローナ、大きなガルダ湖を経てピエモンテ州トリノに着き、郊外のバローロ村に入った。
この辺りは初めての場所だった。小高い丘陵に広がる一面のぶどう畑を眺め、古いお城や可愛いレストランの並ぶこじんまりした村を抜けて、とあるワイナリーに向かう道すがら、小さな十字路の左側をふと見ると石畳の坂があり人影を見つけた。とっさにカメラを構え少しズームしてパシヤッとやったのがこの一枚。もう一枚と思ったとき、二人は奥の角に消えて見えなくなっていた。
この後、ワイナリーで黒トリュフが添えられたリゾットなど地元の自慢料理をバローロ・ワインとともに堪能して土地の余韻に浸った。しかし、私にとってのバローロの最高の思い出はこの一枚の写真だった。イタリアの小さな村で、一瞬遭遇した父と子。何故か彼らの家族の未来に幸多かれと祈る気持ちが溢れた。子どもたちから贈られた50年物のバローロの余韻が重なったのかもしれない。
そして中学生の頃から写真が好きだった自分の人生を振り返り、「旅とカメラがあって本当に良かったなぁ」と思うのだった。

自由部門 チバニアン(地磁気逆転地層)/市原市、養老川流域田淵 昭40卒 勝山 泰典
千葉県市原市の養老川流域に露頭「地磁気逆転地層」があります。
この露頭から試料を採取し、分析した結果
・赤杭の部分は、磁気が逆転していた時代の層(逆磁極期)
・緑杭の部分は、現在と同じ磁気の層(正磁極期)
・黄杭の部分は、赤杭の期から緑杭の期に至る過渡期の層(磁極遷移帯)
と判明。赤杭の逆磁極期から黄杭の過渡期の磁極遷移帯を経て、現在と同じ緑杭に戻る様子が連続して観察できます。
また、火山灰の堆積層(約77万年前に古期御嶽山が噴火してできた)が一本の筋として見ることができることから、およそ77万年前に地磁気が最後に逆転した年代であることが視覚的に特定できます。
こうした調査・分析に基づき、2017年6月国際地質科学連合の専門部会に「第四紀更新世前期・中期の境界地層の国際標準模式地」として申請され、11月に選定されました。また、2018年10月には国の天然記念物としても指定されました。
今後、さらに上部組織の審査を経て、磁気の逆転が現れている世界で一ヵ所、境界ポイントとして正式に選定されることにより、地球の地質年代区分において、この地質時代が「千葉時代=チバニアン」と命名、記載されることになります。
今後の審査に対応するには、新たな試料を採取する必要があります。しかし、初期申請時に大学の研究グループ内での確執があり、露頭部分は私有地であることから、申請反対者が賃借権を設定したため、立ち入り採取ができないことになりました。
申請推進グループは、他の場所からでも試料を採取して、審査に対処するようですが、市をも巻き込んだ混迷を早く収束し、今後の審査をクリアして「チバニアン」の実現を期待したいものです。

自由部門 相棒/文京区音羽 昭44卒 多久 彰紀
仲間数人とカメラをぶら下げての街歩きの途中、通りかかった工事現場での一枚です。ちょうど休憩時間だったらしく、入り込んでカメラを構えていると、イラン人と思しき二人が[撮ってくれ]という身振りで近寄ってきました。そこで数ショット撮影し、ほどなく休憩時間も終わったのか機械も動き出したので、そのまま別れました。
2,3日後、彼らに手渡そうとプリントして持って行ったのですが、誰もいません。二人の後ろに写っていたショベルカーもなくなって、閑散としています。
しょうがない、もう一度だけと決めて数日後再度行ってみると、イラン系の若者5,6人が賑やかに廃材を大きなダンプカーに積み込んでいました。でも二人の姿は見当らない・・・思いあぐねていると、ダンプの陰から現場監督らしいイラン風強面が現れました。
何の用だ?とでも言いたげな仏頂面で迫ってきましたが、写真を見せたところ、ハッサンとかなんとか言いながら頷いています。見つけたぞ! すかさず渾身の身振り手振りと片言で、二人に渡してくれるよう頼んで写真を預けました。
ちゃんと通じたか不安でしたが、ハッサン(?) と相棒に無事届けられることを祈りながら、工事現場を後にしました。(東京・文京区音羽で)

自由部門 映画の小路/蒲田駅東口さかさ横丁 昭44卒 平嶋 彰彦
JR蒲田駅の京浜東北線発車メロディーに蒲田行進曲が使われている。この通りのつきあたりを左へ 100 メートルほど歩いたところに、大正 9(1920)年から昭和 11(1936)年まで、松竹キネマ蒲田撮影所があり、蒲田行進曲はその所歌だった。
撮影所の北側を流れていたのが逆川(さかさがわ)。正門前に架かっていたのが松竹橋で、蒲田駅で降りた俳優や撮影スタッフはこの橋を渡り撮影所に入った。さかさ横丁はその逆川に並行する形でつくられていて、居酒屋やパブなどが軒を連ねる。買い物かごを下げているのはどこかの店の人で、仕入れから帰ってきたところらしい。
この写真は、早稲田大学写真部OBを中心にした街歩きの会で、今年の7月2日に撮影したもの。メンバーは9人、月一度のペースで、このときが92回目になる。
画像を整理していて、「大女優」というネオン看板の文字がなんとなく気になった。調べてみると、日本映画の黎明期には、女性を演じたのは女優ではなく、なんと歌舞伎芝居の女形だったらしい。女優の育成を他社に先んじて行ったのが松竹で、蒲田撮影所からは、栗島すみ子、英百合子、五月信子、川田芳子などの名女優を輩出したということである。詳しいことは分からないが、女優という言葉は、蒲田行進曲と共に、近代にふさわしい新しい文化を切り拓こうとする松竹キネマ蒲田撮影所の代名詞であったのかも知れない。
逆川は六郷用水の分流で、農業用の灌漑が用途目的だった。昭和40年代に埋め立てられてしまうが、その川筋をたどると、蒲田駅西口方向から駅構内、大田区役所を通り抜け、駅東口の大田区民ホール(松竹蒲田撮影所跡)から東に流れ、多摩堤通りのあやめ橋西詰で呑川に合流していた。蒲田や大森に近代工場が立地を始めるのは明治時代末だが、大正九年に蒲田撮影所が開設されたころは、まだ鄙びた田園風景が広がっていたようにみられる。
だが、蒲田や大森の一帯は関東大震災(大正12年)の被害が東京市内のなかでは比較的少なかったため、震災後には大小の工場が本格的に進出するようになった。とりわけ昭和6年に満州事変が発生して以降は、雨後の筍のごとく軍需工場が増加した。
この年、日本最初の本格的なトーキー映画『マダムと女房』(五所平之助監督)が公開される。蒲田撮影所の製作で、この年の『キネマ旬報』 ベストテンの第一位に選ばれた。
それより4年前の昭和2年、 アメリカで初のトーキー映画『ジャズ・シンガー』が興業的に大成功を収めた。それに呼応する形で、日本でも無声映画から トーキーへの転換が図られたものとみられる。しかし、トーキーでは、撮影所周辺の工場から出る騒音は、映画製作の上で、致命的ともいえる障害となった。
「特に新潟鉄工所がそばにあって、 ディーゼルエンジンをこしらえるために、夜中までドカンドカンと音を出します。無声映画時代ならいざ知らず、トーキーになってからは、その音が邪魔でとうてい仕事になりません」(『松竹の映画製作の歴史』)
昭和11年1月15日、松竹は撮影所を蒲田から神奈川県の大船へ移転した。翌2月26日、陸軍青年将校が 国家改造を企て武装蜂起、いわゆる 2・26事件が発生。27日には、 首都東京に戒厳令がしかれた。

自由部門 私、虫大好き/東京都港区 昭44卒 元木 貢
私は「ペスト コントロール」の会社を経営しています。病気のペスト(黒死病)はドイツ語。英語では「やっかいもの」 という意味で、「ヒトに危害を加えるやっかいな生物を防除」する仕事です。
ペスト コントロールを市民に知っていただくため、私たちの業界では各種のイベントに出展しています。昆虫の標本や動物の剥製を展示すると大勢の子供たちが集まってきます。
写真は、東京都港区の「みなと区民まつり」に出展した際、生きたマダガスカルゴキブリを手に持った勇敢な女の子を、傍らの男の子が見つめているところです。男の子のシャツにも虫がデザインされています。

自由部門 鳥に訊け・リュウキュウアカショウビン/沖縄・宮古島大野山林 昭45卒 渡辺 新平
リュウキュウアカショウビンの餌場は、タブノキ、ガジュマル、クワズイモ、シダなど亜熱帯の木々に囲まれた池だ。
蚊から始まってカエルや亀まで、そして鳥たちを育む、自然溢れる少し大きな水たまりとも言っていい。
長袖シャツ、虫除け、かゆみ止めなどで万全の防蚊対策をしてきたが、池のきわに三脚を据えた頃から耳元では蚊の羽音がしきりだ。風もない。見上げても木々の葉が重なり空は見えない。薄曇り。
突然水音がして朱い影が目の前をよぎった。わずか数メートル先の池の上に突き出た太い幹にとまっている。近すぎる。三脚を目一杯引き寄せて据え直し、背中をガジュマルの幹に押しつけ、シャッターを切った。ファインダーに入りきれない。レンズを変えようか、と思う間もなく再び水音。足下の水面から飛び上がってもとのあたりにとまった。何とかファインダーに収まっている。向きを変えた。私を見た。凜とした命が見える。赤紅の羽が美しい。シャッターを切り続ける。ファインダーから消えて水音がして、すぐさま元の位置に戻る。これを5,6回繰り返し、カエルらしきものを捕まえて飛び去った。
こんな至近から鳥を撮ったのは初めてのこと、胸が高鳴っていた。息を吸い直し、大きく深呼吸し右手に左手にかゆみを感じて我に返った。ほんの数分の出会いだった。残念なことに、速すぎて近すぎて、飛び込むところも飛び上がるところも撮れなかった。
宮古島ではこのアカショウビンを始めオオクイナ、リュウキュウヒヨドリ、リュウキュウサンコウチョウ、カラスバト、キンバト、干潟のシギなど貴重な鳥も運良く見ることができた。沖縄では米軍の演習場がある北部ヤンバルの森から入り、ヤンバルクイナ、ノグチゲラ、ハブも見たが、それよりも、名護までのタクシーから見えた、道沿いにつづく墓所の連なる光景が目に焼き付いている。

自由部門 オールドボトル達の午後/USAアリゾナ州ルート66沿いの古道具屋にて 昭46卒 中道 順詩
1970年、大学3年在学中に『何でも見てやろう』(小田実著)と『青年は荒野をめざす』(五木寛之著)に感化され、海外の旅への興味が湧いた。欧州に向かう一番安いルートを調べると、横浜?ナホトカ(船)?モスクワ(鉄道+航空機)?ヘルシンキ(鉄道)というラインがあった。当時、レートが1ドル=360円の時代で海外に持ち出せる通貨も限定されていたが、時間はたっぷりあったので、のんびりとこのルートを選んだ。
この旅で、写真家になろうという決心をしたようだ。フリーランスの1980年代に入り、アリゾナを旅していた時、ルート66沿いの片田舎にその古道具屋があった。入り口付近には、古い農機具や生活用品が程よい間隔で置かれ、奥まった窓辺に使い古された瓶の棚があった。かなりの年代物で、一体何が入っていたんだろうと思いながら、午後の陽光が射す窓辺に見惚れていた。
奥まったカウンターに座っていた主人に撮影許可をもらい、ハッセルブラッドで撮った。

自由部門 15.5 人 分/和歌山県 高野山 昭47卒 小西 敏治
弘法大師さまがお生まれになった6月15日の高野山は特別に賑やかです。日本中から信者が駆けつけて「青葉まつり」が盛大に行われるからです。というより、まつりが行われるために大勢の門徒が全国から馳せ参じます。
加えておよそ信心の欠片もなさそうな者たちも忽然と姿を現わします。
まつりの前日、広島からその欠片もない者たち10人ばかりが5時間をかけてお山に登りました。欠片もないため、念仏を唱えながらテクテク歩いてなんてことは絶対にありえません。道中の車内にはワクワク気分が渦を巻き、前夜祭と翌日の本番の撮影に備えて「ああ撮る、こう撮る」、「レンズは、絞りは」などと不信心な話で熱気ムンムン。
気持ちだけが若い者たちばかりにしては5時間もの車旅をモノともせず、着くやいなや宿坊に一目散。旅装を解く間も惜しんで撮影に出掛けようと意気込んでいました。
しかし、その宿坊の玄関先でいきなり被写体を発見! 見つけたのは私です。独り占めにしようかとも一瞬思いましたが、ここは神聖な? お山、今日ばかりは仏心が欠かせません。泣く泣く仲間たちにも教えたところ、喰い付くこと喰い付くこと。
この下駄箱、突っ立ったままの不信心な姿勢で見下しますと、朽ちた単なる下足置き場にしかすぎません。歯が猛烈にすり減った14.5人分の下駄たちと、20年は使っただろうと見えるトイレ用スリッパ1足が所在なく並んでいるだけです。すべてとっくに寿命が尽き果てた超年代モノです。
ところが、背中を丸め合掌姿勢でよ?く見ますと、何と! 「地●●で仏に会ったような」光景が目の前に広がったのです。
「やったぁ! 神様仏様、無けなしのお金を叩き、こんな山奥にまで作品作りにやって来た甲斐がありました。ありがとうございました ! 」合掌・・・。
まあ、このように信心の欠片もない者たちが、まつりの趣旨とはかけ離れた魂胆で集まるのが6月15日の高野山です。私はその後も2年続けてお山に登りしましたが、未だに欠片さえありません。

自由部門 義母/宮城県栗原市 昭48卒 稲山 正人
上山きい子、昭和2(1927)年生まれ、92歳。僕の義母。
宮城県北部の農村に生まれ、隣村の農家に嫁ぎ専業農家の嫁として二人の子を生し、育てた。
農作業と家事を担う典型的な「農家の嫁」を生きてきた気丈な義母も昨年の暮れから施設暮らしとなり、初めての曾孫との対面を楽しみに過ごしていた。
この5月に初めて曾孫に会ったとき、視力の衰えた義母の目は曾孫の顔を確かに捉えられなかったのか、新しい命を確かめるように曾孫の足にそっと触れた。
世の中がどのように変わろうとも、遠くの栗駒山の雪形を拠り所に土と生きてきた義母。 身体の衰えを自覚したとき、長年綴り続けた日記をすべて廃棄したとのこと。その潔さに感服する。

自由部門 My Favorite Place /テート・モダン美術館 ロンドン 昭48卒 藤井 美代子
いつの頃からか外を歩いていて、好きな景色や場所と嫌な景色や場所を気にするようになった。正確には気にするというよりは、心の中の遠くでちらっと感じながら、日常生活を送っていただけである。それらは子供の頃から見ていたテレビ、映画、雑誌の写真等と自分の記憶の底から選択され、浮かび上がるイメージとが合体して出来ていることは確かだ。
例えば、水分をたっぷりと含んだ重たげな空気は近景を砂漠の蜃気楼のようにゆらっと見せる暑い夏の日の午後。あるいは、美術館や図書館の非日常には底に不安が薄っすら淀んでいるとはいえ、何かへの期待と少しのワクワク感がある。ネットで見た著名な建築家の手になる邸宅の一室の写真は大きく外へと開かれ、緑の樹木の頂上が階上の部屋と同じ高さまで迫り、眼下にはプールがある。階上の部屋は外との仕切りがないように見える。
最近ポテトチップスやヨーグルトのメーカーが使う官能検査という言葉を知った。人間の五感を用いて製品の質の最終的判定をするもので、これだけは今のところ人間にしかできないそうだ。この家の写真はこんな私好みの空間があるのだという快い微量の緊張感と全身の感覚でその空間を経験する生の心地よさを与えてくれる。

フロイトはその有名な論文『不気味なもの』でドイツ語の<不気味な>という形容詞 unheimlich の語源について述べている。heimlich とは<慣れ親しんだ>という意味で、そこに否定辞の un- を付けると<不気味な>という意味になる。さらにフロイトの後を継いだラカンは日頃慣れ親しんだものが、何らかの理由で抑圧されるべきものとなるが、抑圧されたものは姿を変えて執拗に回帰してくると述べている。
フロイトの顰みに倣えば、英語の favorite には unfavorite(大嫌いな)という語があるので、favoriteを支えているのは<嫌な>感じということになるのではないのか。それは孤独と存在することの不安を感じてしまうイヤな場所や景色なのだ。めったにない幸せな気分で歩いていたとしても、嫌な景色は相変わらずどこにでもあった。だからこそ余り無い<好きな>場所や景色は貴重なものになる。

もっともこうした場所や景色が意識の中で前景に出て来たのはここ数年のことで、それを可視化しようと思い立ったのは iPhone がきっかけだった。子供の頃は祖父が買ってくれたカメラで、家族や友達をパチパチ撮っていたが、撮ってばかりいるとその時を楽しめないと気づき、次第にカメラを手にしなくなった。ところが iPhone だと、カメラを「ヨイショ」と出して構えてしまう気持ちから解放されて、自然に撮影の動作に入ることができる。
例えば嫌な景色は何年かに1回は夢に出てくる母校の中学校の辺りで、今も時々近くは通るが、中学卒業以来決して足を踏み入れたことがない、いやーな場所である。中学校の前の細い通りを挟んで反対側に数件の平屋と二階建ての一軒屋がある。それがまるで芝居の書き割りのように平板に見えるのだ。その場所は夢と連動して、不安で嫌な景色の一つになっている。しかし撮った写真は他の人が見たら、どうということもない風景でしかない。
unfavotrite な景色はそのままでは表現したいことが伝わらないと分かった。写真や絵画はタイトル以外余り言葉を用いないで、何かを表現出来れば理想だが、もし私が unfavorite な景色を表現したいのならば、加工も必要なのだと悟った。そう言えば昔気に入って見ていた写真集はポスト・プロダクションのいい例だったのだと、今頃気づいた。しかしまだあまり嫌な景色は撮りたくない。怖い。今はそれが支えているあるいは両者が支え合っているfavorite な景色を撮っていくしかない。

自由部門 水の表情-幻想-/埼玉県美の山 平1卒 森 裕晃
写真は美濃山山頂から秩父市街地を望んでいます。
私は秩父をテーマに撮り始めて30年になりますが、折からの"天空のXX"ブームで、秩父の雲海は密かなブームとなっています(もはや密かではないくらい)。
秩父は山間部に囲まれた盆地のため、雨上がりの後など湿度が100%に近くなると雲海に覆われます。美濃山は標高600mの独立峰のため、雲海の上から撮影する事ができ、その雲海の下にある秩父市街地の鮮やかな夜景のディフューザーとなり、まさに自然と人工光のコラボレーションで幻想的な光景を作り出します。雲海は常に動いているため、また人工光は色温度設定によって様々な色に表現されるので、目で見る光景と写真表現とのギャップを楽しめます。
太古の昔、秩父は熱帯地方の海でした。今でも貝やカニの化石を見つけることができます。大陸の移動と地穀変動により隆起し盆地となりましたが、この雲海を見ていると、私のDNAには太古の秩父湾の光景が蘇ります。

自由部門 御嶽(ウタキ)/鹿児島県 奄美郡 喜界町住吉神社 平2卒 金城 正道
奄美を訪れると、琉球の影響は島々の南東岸に多く残されていることに気づく。かつて琉球が戦国の世にあった沖縄本島から、ヤマトに向け島伝いに海流や季節風に乗って太平洋・東シナ海を航海すると、自然に辿り着いたのが奄美の島々の南東岸なのだ。 中世、奄美大島の東に浮かぶ喜界島は、ヤマトから琉球への玄関口であった。それよりさらに前の時代、北を目指した琉球の按司(豪族)たちが、この地の支配に及んだ。その痕跡は、琉球弧の北端に位置する喜界島や対岸の奄美大島・笠利地区のあちこちに今も見られる。

自由部門 巡礼/中国・チベット ポタラ宮 3年 村井 遥
多くの人は「辺境」と聞いて何を想像するだろうか。なにがあるかわからない未知の土地といったイメージだろうか。
辺境という言葉を調べてみると、「中央から遠く離れた土地。国境」とある。なるほど、私の訪れた土地にぴったりの言葉ではないか。
昨年の夏、中華人民共和国チベット自治区の中心都市であるラサ(拉薩)を訪れる機会に恵まれた。日本を発ってから途中観光も挟み、3日目にして鉄道でラサに入るとたちまち高山病に襲われた。ラサはちょうど富士山の山頂と同じくらいの標高であり、それだけでもここが厳しい土地であるということを、身をもって実感させられる。現地のガイドさんが、チベットの人間や動物は生まれた時から酸素の少ない環境で育つから体があまり大きくならないのだと教えてくれる。また、降水量は少なくとても乾燥した気候で、この街を取り囲むような山々の茶色い岩肌が目立つ。
この写真はチベットのポタラ宮で撮った。
ポタラ宮は、1642年に建設されたチベット仏教及び昔のチベット政府の中心となっている宮殿である。しかし、1950年代の中国共産党によるチベット統治のための侵攻により動乱が発生、チベットの人々にとって象徴ともいえるダライ・ラマ14世は亡命した。
ダライ・ラマのいないこの宮殿と、「中国の中のチベット」を見ることが、私が決めたこの旅のテーマであった。
ポタラ宮で私が目の当たりにしたのは、とても信仰のあついチベットの人々の姿だった。幼い子供も腰の曲がったお年寄りも、多くが宮殿に入る前から五体投地と呼ばれる両手・両膝・額を地面に投げ伏す礼拝を繰り返しながら少しずつ前に進み、聖地を巡礼している。
また、マニ車と呼ばれる、回すと経を唱えたのと同じ功徳があるとされる道具を持って神妙な面持ちで巡礼する人たちがいる。
日ごろあまり宗教に親しみのない人の多い日本で暮らす私は、その姿に素直にこころを打たれた。一方で、政治的な面も無視することはできなく、至るところに習近平国家主席の写真が大きく貼られていたのはとても印象的であったが、その中でも、人々の中に根付いている信仰心や文化は決して消えてないことがわかった。
中国の一部となり、その中央である北京から遥か2,500 km離れたラサは、今では「辺境」なのかもしれない。しかし、チベットの人々の中にある信仰や文化の中心であることに変わりはない。
『第13回写真の早慶戦』(『それぞれの昭和』&自由部門)

テーマ 石巻市立門脇小学校6年3組/宮城県石巻市(昭和27年3月撮影)昭37卒 大森 昭啓
私は3歳から15歳までの幼・少年期を父が赴任していた宮城県石巻市で育ちました。通学した小学校は「石巻市立門脇(かどのわき)小学校」でした。
卒業した昭和27 年当時は未だ国全体が貧しく、所謂ニコヨンの時代でした。写真も高価で、卒業アルバムと言っても、学年全体3クラス分の写真はなく、教職員と当該クラスの2枚の写真が貼ってあるだけのささやかなものでした。
あの平成23年3月11日、テレビから聞こえてきた「日和山から中継です」の声。
「この山の下の学校が燃えております」。―――――――見ると炎が吹き上がっておりました。
この下の学校なら門脇小学校?だけど鉄筋コンクリートが燃えるの?机や椅子があるからかな?・・・だ
けど火の気はないだろうに・・・」。
取り留めのない事が頭をよぎりました。
津波で押し寄せられた自動車から漏れたガソリンに火が着き、大災害の中で消火活動も出来ず、3日間燃
え続けたとのことでした。
平成27年3月22日最後の卒業式を行い、同31日、142年間の歴史を閉じました。
尚、この卒業写真に写っている人々の中で、「3.11」で亡くなった人はいないと聞いております。

テーマ 花嫁さんだー/新潟県小千谷市(昭和30年1955.11撮影)昭32卒 野中 昭夫
2年生の秋帰省。実家の前の道でお嫁さんに出会った。嫁ぐ人を見送る隣人たちの真剣な、何か心配そうだが温かい視線が嬉しかった。
終戦から10年、新しい昭和時代への微笑なのだろう。
当時この地には結婚式場なんかなかった。
今宵は「祝言」。両家集いて三々九度の杯を挙げて結婚を祝うことだろう。
昭和19年春,招集された父を同じ道で、軍歌で送り出した。その時の後ろ姿が思い出された。
確かに昭和は変わった。

テーマ 那覇・桜坂の夜/沖縄 (昭和41年撮影)昭32卒 徳永 善彦
沖縄が日本に復帰する以前の昭和41年、林忠彦先生と今は亡き広島の写友たちとの沖縄撮影旅行で撮った一枚です。
那覇の歓楽街「桜坂」の夜更け、皆と立ち寄ったバーを出た道端で蛇皮線を爪弾きながら堪らなく哀愁を帯びた琉球民謡を歌う盲目の男が座っていました。
4、5カット撮らせてもらいましたが、不自由な身の彼のことを思い、ずっと発表を差し控えてきましたが、既に半世紀も歳月が経過し、昭和の沖縄の歴史の一駒として、私の所属している二科会写真部60周年記念写真集へ先年敢えて発表させていただいた写真です。

テーマ 三池炭鉱・三川坑跡/福岡県大牟田市 (平成28年10月3日撮影)昭45卒 白谷 達也
昭和38年(1963年)11月9日午後3時12分、三川坑第一斜坑内で炭じん爆発が発生し、死者458名、一酸化(CO)中毒患者839名を出した。
丁度その頃、僕は西鉄大牟田駅頭に立っていた。
駅周辺には人も車も見当たらなかった。「ゴーストタウン」という言葉がよぎった。
あれから54年後、昨年10月閉山した三川坑跡に立っていた。
しかし、第一斜坑は坑口もろとも埋められて更地になっていた。
まるで何も無かったかのように。
有明海の海底深くまで「人車」で坑夫たちを送り込み、「炭車」で石炭を運び上げてきた鉄路は辛うじて残っていた。
事故当時第一斜坑に下りていた約1400名の坑夫たちが通って行った路に違いなかった。
CO患者は今でも後遺症に苦しんでいる。

自由 ひとり・木道を行く/クロアチア プリトヴィッツェ国立公園 昭30卒 工藤 司朗
世界遺産「プリトヴィツェ湖群国立公園」はクロアチアを代表する観光地で、当然多くの観光客で賑わいます。
その静寂な公園を表現する写真を撮るのは至難なことでした。
人の賑わいが去るのをしばらく待ち、カーブを描いた美しい木道に一人の女性が差し掛かりましたのでシャッターを切りました。
静寂な公園を撮るにしても“人”を入れることが条件と考えたからです。この広い公園で数百枚を撮りましたが、計算して撮れた唯一の作品です。

自由 塩を運ぶ/エチオピア ダナキル砂漠 昭31卒 稲村 不二雄
海抜マイナス120メートル、乾季になると気温は50度、エチオピア北東部に広がるダナキル砂漠は「地球上で最も過酷な地域」と云われている。その砂漠のなかを、採塩場のアフデラ塩湖から200キロ離れた、標高2000メートルのメケレの街まで2週間かけて塩を運ぶらくだの一群がいる。一頭が250Kの岩塩を背負い、数10頭が集団で歩く。
ダナキル砂漠に野営し、らくだの一団を探すために、トヨタの4WDを使って広大なダナキル砂漠を何時間も走り回る。乾季に入った11月だったが2017年雨季の雨量が多く岩盤砂漠は巨大な湖状態になっていた。現地ガイドさんが視力3.0を活かし遥か彼方の一団をやっと見つけてくれた。じゃぶじゃぶと水を蹴散らして歩くらくだの行列は壮観だった。1000年以上以前から続けられていたこの仕事も、近代化に伴い間もなく終了するらしい。歴史に残る姿を見られたのは幸運だった。

自由 師匠と弟子/東京 王子稲荷神社 昭33卒 浅澤 尭
毎年、大晦日の夜、王子の街は狐になった人々であふれかえります。
狐になった人々は行列をつくって「ゑの木衣装稲荷神社」を出発し王子稲荷神社」に向かいます。
二月、「王子稲荷神社」の「二の午祭」には近隣の幼稚園の園児たちが牛乳パックで造った狐のお面をかぶり神社に集まってきます。
この神社で特に子供たちに人気があるのはお獅子のおじさんです。
体が柔らかいのが自慢のおじさんは、足を百八十度に開き、園ごとの記念写真にすべて参加します。
ある年、このおじさんに嬉しいことが起こりました。自分の芸を引き継いでくれるお弟子ができたのです。
園児たちが、帰った後にお獅子の芸の特訓が始まりました。時には観客の笑いを誘うような動きを見せなくてはなりません。
恥ずかしさで真っ赤になりながら師匠の真似をする若者。
いい写真が撮れた!!
どうしてもこの写真をお獅子のおじさんに差し上げたいと思っておりましたところ、大晦日の「狐の行列」で狐になったおじさんに出会いました。
なんとおじさんは「王子狐の行列の会代表」だったのです。創業八十年の老舗メンズファッション「菊秀」の社長 高橋秀一さんでした。
でも2年後、このお弟子は家庭の事情でおじさんのもとを去っていきました。後継者を失ったおじさんの落胆の様子が今でも忘れられません。

自由 斜陽/志賀草津道路山田峠付近 昭33卒 高木 實
志賀高原から横手山を越え、早春の上信国境尾根にスキーを走らせ、振り子沢を草津に滑り下りた。
山田峠まで来た時、陽は西に傾き、雪のピークが逆光に映え、誠に写真的なシーンを造り出していた。
季節や天候などの移ろいとともに、自然は刻々と表情を変え、撮影の瞬間、どんな姿を見せるのか予測はできない。
カメラポジションと構図を決めて、イメージ通りの画面ができるよう自然が応えてくれることを祈りつつ、四季の山々に通い詰めた日々のこの一枚。
ファインダーを覗くと、イメージと寸分違わぬ画面ができ上がっていた。
私の頭の中を、自然が読み取ってくれたのかも知れません。

自由 日本の光/軽井沢、六本木 昭35卒 出井 伸之
光にはパワーがある。
都会の春の光の勢い。
森の冬の朝陽。
私たちは太古より光を頼りに生活して来た。日本の未来をより輝かしいものにする為に、「自然」の光を大切にしていきたい。

自由 いのちのビザ/早稲田大学商学部前 昭35卒 平山 恵章
「命のビザ」で世界にその名を知られる杉原千畝氏を私が知ったのは、氏がテレビなどで取り上げられる以前のことだった。
ご遺族のお一人と妻がたまたま知己であり、氏は既に他界されていたが、その人となりは仄聞ではあるが伺っていた。
氏の業績への評価は、ここ数年一時ほどの熱狂を持たれていないと私は感じているが、日本国内では連日のように「忖度」と言う言葉が新聞紙面を賑わし、世界では物理的にも精神的にも「難民、移民排除のための壁」が築かれようとしている今こそ、杉原千畝氏の功績をじっくりと振り返る必要があると私は考える。
氏は、優れた外交官であるがゆえに「忖度」などはせず、むしろ本国外務省の意に反し自らの考えの下「命のビザ」を発給した。それはその人の命を賭した行為であったと思う。
難民を排除するのではなく、受け入れる決断をしたことは、世界を取り巻く今の情況を考えると、一層賞賛されるべきものだ。
氏の功績を称えた記念碑を早稲田大学構内に撮りに行った際、その碑のある場所はひっそりとしており、近くを通る学生にもその場所は知られていなかったが、それこそが慎ましやかに自らの功を誇らなかった彼の人柄にふさわしいと感じた次第である。

自由 鳥に訊けースズメ/北海道白老町 昭45卒 渡辺 新平
父母が晩年を暮らした家の前の道、そこに驟雨が襲い、あっという間に小さな水たまりをつくり上げた。直ぐさま、雀たちがやってきて水浴びを始めた。
普通に人が、車が行き来する道である。
「何故そんなところで」と「鳥に訊いた」。「このあたりは温泉水ばかりで、普通の水場がないんだよ。天からの贈り物の雨水も、最近は汚染物質とかいうやつが混じっているけどね、習性だからね。キレイになって生き延びたいと思ってさ」。
たまにだが、こういう錯覚が鳥との繋がりの機縁となり、共生する世界を垣間見ることになる。
バラバラにやってきて、それぞれに場を占め、一斉に水浴びする。路上の水たまりは雀たちの蘇生の舞台である。

自由 極楽浄土が見えた/東京 稲城市 昭46卒 石崎 幸治
写真の大きな役割の一つに物事を記録することがある。人物や風景写真を見ることができて、居ながらにして色々な人に会えるし、世界中を訪れることもできる。でも最近、そのような役割・機能にあまり感動を覚えない。
不遜ながら、その場に立ってシャッター・ボタンを押せば同じような写真を撮れると思ってしまう。写真には絵画のようなタッチがないから、独自の表現法を創り出すのが難しい。
写真は早いシャッター速度で撮影すると被写体の動きを止めることができる。また接写すると小さい世界を記録することができる。この2つの特性を活かして、水滴が水面に落ちて跳ね上がる瞬間を撮影した。
一瞬の水滴の形とその中に花が映っている姿を肉眼では見ることはできない。これからも写真を見た瞬間に「綺麗」とか「不思議」さを感じさせる独自の世界を撮り続けたいと願っている。

自由 秋色/広島市東区馬木 昭47卒 岩崎 洋一郎
私の写真は概ねとても不真面目だ。しかし、自分の家の庭先で量産できるこのやり方は、日々の小銭稼ぎの仕事に追われる私にとっては今や唯一の生き甲斐となっている。
さて、仕掛けはこうだ。先ずはマクロレンズを浮き浮きした気持ちでカメラに取り着ける。そして、葉っぱとトンボを用意する。順序は逆でも問題ない。
トンボは猫の額ほどもない自宅の古池からいくらでも調達できる。が、決して乱暴に扱ってはならない。トンボは迷惑千万と思っているので、丁重に接する心構えが大切なのだ。
これはある時以来、昆虫撮りの礼儀と固く信じるようになった。ここでの必需品は虫取り網。これが無くては「逃げる・追う」のイタチごっこがまるでできない。
「ごっこ」が都合よく行き、運よくこちらの意図する形になったら、その一瞬を決して逃さないこと。
連写!連写! むろん、キツイ逆光とバック紙も必需品であることは言うまでもない。
最後に大恩人のトンボさまを元の池にそっと戻して差し上げることを絶対に忘れてはならない。

自由 毛皮を争奪するタジク人の男達/中国新疆ウイグル自治区タシュクルガン 昭47卒 岩崎 洋一郎
羊(山羊?)の毛皮を奪い合う騎馬競技の舞台となっているのは、中国新疆ウイグル自治区でも最西端に位置するタシュクルガンで、そこはタジク族の世界。
背景の雪山を越えればもうタジキスタンで、タジク族の居住地域は、更にアフガニスタン、ウズベキスタンと広がっている。
しかし新疆だけに限ればその人口は僅か数万人に過ぎず、千数百万人のウイグル族と比べると圧倒的に少数民族で、他にも20近くの少数民族が存在している。
全中国から見ればウイグル族も少数民族で、政治的、宗教的な束縛を受けているが、新疆に関して言えば多数派となり、タジク族等の少数派と様々な確執を生じており、人為的に民族を分断する国境線の理不尽さを痛感する。
写真の競技はアフガニスタンでは国技のブズカシと呼ばれるが、男達の必死の形相は懸命に民族のアイデンティティーを主張しているようにも見える。

自由 トラバース/北アルプス 朝日岳 昭48卒 稲山 正人
登山口の蓮華温泉から湿原を抜け、雪融けの急流を渡渉し、樹林帯の急登を登り切ると森林限界に達した。登山道は木道となり私を草原に導いていく。ここまで3時間。草原の向こうに目指す朝日岳が見えている。行程はまだ半分に満たない。
2017年7月中旬、私は梅雨前線が停滞する北アルプス白馬岳を目指して蓮華温泉から入山した。草原を囲む山の斜面はまだ分厚い残雪に覆われている。その雪面からは靄が燃えたち、神秘の世界を演じている。傾斜した残雪帯の先端からは雪解けの水が滴り落ち、やがて水流となって草原を潤す。その草原では水音を背に小さな花たちが一斉に咲き始めている。この時期の北アルプスの北部は雪山から夏山へ移り変わる幕間である。雪が融け、山肌が表れ、花が咲き始める。
足元に咲く花々を見ていると実にお行儀がいい。岩間、水辺、砂礫、樹林帯、と皆おとなしく自分の住む場所をわきまえている。闖入者の私は花たちと無言の挨拶をかわしながら丁寧に歩を進める。
やがて高度2千メートルあたりから完全に雪渓歩きとなる。長い雪上のトラバース道が尾根へ続いている。ここは慎重にアイゼンをつけ、サクサクと確実に高度をあげていく。
やがて雪渓は消えて、ガレ道となった。とうとう朝日岳直下の尾根に登り詰めたことを確信。今日の目的地、朝日小屋はもうすぐだ。

自由 秋色/北陸地方の某寺 昭50卒 湯川 登紀雄
・秋雨前線の停滞であいにくの天候のなかを、北陸地方の寺社を巡る??。コートを着込んでも冷気が染み入り、カメラを持つ手がかじかむほどだった。
・名もないお寺の境内に足を踏み入れると、朱色と黄色の織りなすじゅうたんが広がっていた。
思わずシャッターを切り、さらに撮り続けようとしたが、あとから来た参詣者に追い越され、じゅうたんが綻び始めてしまった。前後に動いたりアングルを変えてみたりしたが、どうしても納得がゆかない。
・あれよあれよという間に、じゅうたんのほころびが広がって、最初の感動の余韻だけが脳裏に漂っているのであった。

自由 sarabande/川崎 昭60卒 東 俊治
バッハのリュート組曲BWV997の3番目に配置されている曲からの発想です。
壁やフェンス、いくつもの通信網にがんじがらめにされて、いつの間にか真実から乖離した闇の中で生活している我々の日常。
そんな中でふと我に返り、遠く虚空にある光の中に、希望を形にして見出せるのかと問い続ける人間の性を表現いたしました。
リンク
関連Webサイトへのリンク
早稲田大学写真部「X」(旧ツイッター) https://twitter.com/wphoto101
三田写真会ホームページ http://ko-mitassk.jimdo.com
昭44卒 平嶋彰彦さんのブログ http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/cat_50035506.html
昭44卒 伊藤幸司 さんHP https://itonokai.com/
平2卒 金城正道さんのHP https://edgar-q.jp/
平3卒 増田智さんのHP http://masudasj.web.fc2.com/
平12卒 門口浩之さんのHP https://www.monguchi.com/
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