創世期(明治)〜昭和40年代頃(昭和30年卒 日本カメラ編集顧問・梶原高男)

早稲田大学写真部創立100周年記念 オール早稲田写真展開催にあたって
(昭和30年卒・日本カメラ編集顧問・梶原高男)

早稲田大学に教場、講堂、図書館の3つがそろい新たに本格的な大学として発足したのが明治35年(1902)だそうだが、当時の日本の写真界は、幕末・明治に活躍した日本の写真の開祖、上野彦馬や下岡蓮杖に続く職業写真師たちの時代から、アマチュア写真家の時代に変容をみせはじめた頃であった。
◎写真部の創世期
この頃には日本にいろいろなカメラや写真材料が輸入されるようになり、高度な知識を持つ文人や画人たちをはじめとして、財力を持つ財界、実業界の写真愛好者などが続々と写真団体を結成するようになり、写真雑誌も発行されるようになった。当時、写真は現在のデジタル技術に匹敵するハイテクの世界であり、当然それを理解するには高度な知識や教養が必要で、大学教授や学生などにも写真を愛好する人がかなりいたと思われる。これをもって写真部創世の時とすると100周年ということになるが、残念ながら大正12年(1923)の関東大震災や、太平洋戦争での東京大空襲などにより史料はすべて焼失し、伝聞によるしかないのが残念である。
後に写真部の会長を長く努めた今和次郎(1888-1973)は明治45年(1912)東京美術学校を卒業し、早稲田大学理工学部建築学科の助手となり、長期にわたり教授として教壇にあり、写真もたいへん愛好した。一方日本のアマチュア写真界の第一期隆盛期は関東大震災により一時期停滞するものの、震災後ふたたび隆盛し、その後太平洋戦争が勃発するまで第二期の隆盛は続くのである。
早稲田大学写真部が本格的に活動を始めるのは丁度この時期で、それ以前の写真部の古い名簿には明治40年(1907)卒業の鳥山悌成、明治41年(1908)卒業の村井五郎などの名前がみられるもののまだ創世期の域を脱していない。その後、大正6年(1917)卒業の齋藤鵠児は、写真雑誌「写真サロン」(玄光社)の名編集長となって活躍し、大正7年(1918)卒業の岡田紅陽は富士山の写真家として、日本の山岳写真の第一人者となったのは有名で、大正ll年(1922)卒業の土居雄一郎の名前もある。

◎対外活動の開始
大正から昭和になりアマチュア写真界はさらに隆盛を極めるが、早稲田大学写真部は昭和5年(1930)には慶慮義塾大学カメラクラブとの第1回早慶写真展を開催している。早慶写真展は現在ではOB同士の稲門写真クラブと三田写真会とで開催しているが、連綿として今日まで続いているのは、日本の写真史の中でも稀有なことといえよう。いっぽう早稲田大学写真部単独での対外写真展は、昭和10年(1935)に第1回早稲田大学写真部展が日本橋の浅沼商会で開催されているが、その時には稲門写真クラブからも20点あまりの作品が出品され、その中には前出の鳥山悌成、村井五郎、齋藤鵠見、岡田紅陽、土居雄一郎などの作品もみられる。
この頃の日本の写真界にはまだプロ写真家が少なく、当時の写真雑誌の口絵頁には多くの学生写真家の作品が掲載されている。写真雑誌「カメラ」(アルス)は昭和11年1月号で「早慶写真展覧会6」という別冊を発行しているほどだが、その中に統計から見た第六回早慶写真展という記事があり、昭和10年11月20日から24日までの5日間の開催で、会場の銀座伊東屋7階ホールの入場人員が約2万5千人、両校出品点数100点のうち写真雑誌掲載作品数が49点となっているのには驚く。また当時の早稲田大学写真部についてキャプテンの武田圭二は、早大写真部の組織は早大写真会および第一早高写真部の2つの独立した写真団体よりなり、会員数は137名で名実ともに学生写真団体としては日本一と自負している。
昭和10年前後の部員の中には昭和9年卒の杉一郎(富士フイルム宣伝部長)、昭11年卒の小安正直(アサヒカメラ編集長)、鈴木泰全(朝日新聞大阪本社写真部長)、昭14年卒の村井竜一(ローライ倶楽部会長)、原正直などがおり第一次の全日本学生写真連盟(註関東、関西の大学が交流したが中心学生の卒業交代で短期で自然消滅)の結成で活躍した。昭和16年(1941)頃の写真部はキャプテンが松田二三男、1年下に秋山庄太郎、その下に稲村隆正、そしてその下に?方健介に黒川清司、中村泰三と、後にすべてプロ写真家となる、鐸々たるメンバーだったが、戦時中で部員数は10数名ほどであった。戦争は激化して写真どころではなくなるが、やがて終戦の昭和20年(1945)を迎えることとなる。

◎第二次大戦後の活動
終戦後は?方健介が復学しキャプテンを務め、五十嵐亮二、数名の専門部卒と古関敬三(昭和20年卒)、織田浩(昭和21年卒)、薗部孝三(昭和22年卒)、富留宮照男(昭和24年卒)、当間敏夫(昭和25年卒)、詫間喬夫(昭和25年新大卒)、小宮義夫、木内昭三、久保昭(昭和26年卒)、栗原一雄、中島渉(昭和27年卒)と各年の幹部が部活動を軌道にのせていった。戦後いちはやい昭和21年(1946)にはアルス「カメラ」が復刊、同年9月にははやくも日本橋三越で早稲田、慶応、法政の写真部による「三大学写真展」が開催されている。
昭和23年(1948)になると、新宿三越で「オール早慶写真展」が復活し、写真部の活動も本格化する。そして稲門写真クラブの松田二三男、秋山庄太郎、村井竜一、稲村隆正、?方健介、黒川清司、織田浩らは気鋭のプロ写真家として、それぞれの分野で活躍し始めるのである。昭和22年に商学部地下に部室を借りて引伸機も設置すると共に、藤田商会(大隈講堂裏のカメラ店)もこの頃より部員が集る中心となり、その後、長く写真部活動のセンターとなった。
また戦後より昭和20年代の後半までフイルムの入手が極めて困難であったが当時富士フイルムの幹部であった杉一郎、牛田昇先輩の尽力で特別配給を受け当問キャプテンが六大学に配布していた。

◎戦後の隆盛期
昭和25年(1950)頃には部員数も約130名となり例会は大隈会館隣りの食堂2階で行い、毎月200点にも及ぶ四切印画が並べられた。都筑弘雄(昭和27年代表委員)、西沢正雄、清水東士、山本沿一郎(28年代表)と新制高校出身に移り、作品の傾向もサロンピクチャーから時代を反映したリアリズム的作風、生活、人間を捉えたスナップ的なものや、テーマをもった組写真に秀れたものが多くなっていった。
例会や研究会の講師には、土門拳、濱谷浩、林忠彦、先輩の松田二三男、秋山庄太郎、黒川清司といった第一線の写真家や写真評論家の田中雅夫、渡辺勉、重森弘滝などを招き、論理的に写真表現を研究したのが早稲田大学写真部の大きな特長であった。早大写真部は部員各人の個性尊重を第一とし、学生らしい純真で自由な立場で、写真表現にとりくむという伝統を堅持しているのも、誇るべき点といえるであろう。

昭和27年当時の例会風景 例会通知
昭和27年早大学生食堂での例会風景。当時の部員数は約130名。右は例会通知。例会には毎月200点にも及ぶ四切作品が並べられた。

◎写真界での活躍
その結果、以後の卒業生にはプロ写真家や評論家、編集者、写真業界人になる人達も多く、なかでも昭和34年(1959)頃の週刊誌創刊ブームでは、有力出版社写真部を中心に多くの卒業生を送り込んだ。
それらの人達の名前を昭和30年代を中心に列記すると、昭和28年卒では都筑弘雄(富士フイルム・フォトディレクター)、小島啓佑(新潮社・写真家)、清水東士(玄光社編集長)深澤通則(写真家)、秋山誠二(航空写真家)。昭和30年では梶原高男(写真家・日本カメラ編集長)、昆田享(写真家)、吉村伸哉(評論家)。昭和31年では椎木厚(写真家)、稲村不二雄(朝日新聞社)。昭和32年では道正太郎(新潮社)、須田善一(文芸春秋)、野中昭夫(新潮社)、山本謹也(新潮社)。昭和33年では北井三郎(写真家)、浅澤尭(写真家)。昭和34年では山澤賢一郎(中央公論社)、鈴木文武(新潮社)、丸山好雄(朝日新聞社)、矢野勇(写真家)、藤森秀郎(写真家)。昭和35年では庄野耕(フジカラーサービス)、鈴木忠雄(新潮社)。昭和36年では栗原達男(写真家)、内藤正敏(写真家)、林宏樹(写真家)。昭和37年では井上隆夫(文芸春秋).昭和38年では土生一俊(写真家)、今井隆一(主婦と生活社)。昭和39年では安藤幹久(文芸春秋)。昭和40年では飯窪敏彦(文芸春秋)、勝山泰典(オリンパス)、小川忠博(写真家)。昭和41年では鈴木龍一郎(写真家)などがあげられる。その後も写真界に巣立った卒業生は多いが、この年代ほど集中したことはない。
いっぽう昭和27年(1952)には日本全国の大学を結集した「全日本学生写真連盟」を早稲田大学写真部が中心となって朝日新聞社、富士フイルムの後援で結成し、写真展、写真講座など文化活動を活発に行い全国大学写真のレベル向上に大きく寄与した。また富士フォトコンテストの学生の部(D部)には部員多数が入選し、戦前と同様に学生写真団体としては日本一のレベルにあった。
昭和40年(1965)代に入ると各大学で学園紛争が起こり、早稲田大学写真部もその影響で活動が弱まり、分裂状態にもなるが、その時でも稲門写真クラブの活動は持続している.その後学園も平静化し、写真部の活動も現在では元のように続いているが、大学の各学部の分散化などのため、かつての隆盛さは感じられない。しかし最近では新しい部室も出来たようで、これからの活動には大いに期待するものがある。
なおここでは写真界での早稲田大学写真部の写真界での人脈を中心に述べたが、昭和32年卒業の堤義明西武鉄道会長や、昭和35年卒業の出井伸之ソニー会長など各界の有名人も多数あり、早稲田大学写真部、稲門写真クラブの人材の豊富さは社会的に誇れるところである。
(昭和30年卒・日本カメラ編集顧問・梶原高男)

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