顧問放談  ― 都筑弘雄(1953・昭和28年卒)× 梶原高男(1955・昭和30年卒)―

■顧問放談

都筑弘雄(1953・昭和28年卒)× 梶原高男(1955・昭和30年卒)

「都筑さんの話は残しておく方が良いよ」との庄野耕さん(昭和35年卒)の一言に押されこの対談を企画しました。

都筑さんは在学中に「全日本学生写真連盟」の立ち上げに奔走され、また富士フイルム在職中には多くのプロ写真家の活動を支えてこられました。「稲門写真クラブ」、現役写真部学生が長年にわたりお世話になってきた先輩方のお一人でもあります。

梶原さんは小林正樹監督の映画「人間の條件・完結編」などのスチールを担当された後、1975年から98年までの23年間の長きにわたり「日本カメラ」の編集長を務められました。

共に「早稲田大学写真部の全盛時代」を生きてこられ、戦後の日本の写真界に貢献されてきたお二人に学生時代を中心にお話を伺いました。

(代表幹事・白谷達也)


都筑弘雄 ■都筑弘雄

●フォトプロデューサー/写真家
●1930年愛知県生まれ
●1953年早稲田大学商学部卒業
●富士フイルム営業本部副本部長
●2002年日本写真協会「功労賞」
●日本写真協会理事
●日本広告写真協会幹事
●日本写真家協会(JPS)名誉会員
■梶原高男

●写真家
●1932年東京都生まれ
●1955年早稲田大学文学部卒業
●「日本カメラ」編集長 (1975―1988年の23年間)
●2000年日本写真協会「功労賞」
●日本写真協会理事
●日本写真芸術協会評議員
梶原高男

<写真好きな若者たちの憧れの的だった早大写真部>

〜まずは、お二人が早稲田大学に入学された経緯と、どういった写真部時代を過ごされていたのかを教えてください。

梶原(以下K):大学時代は遊んでたんですよ(笑)。都筑さんはどうして早稲田の写真部を知ったの? 早稲田へはそもそも入ろうと思ってたわけ?

都筑(以下Т): 親父が写真好きで名古屋のデパートで個展やったこともあって、その当時にいろいろな中部地域の写真家たちと知り合い、近藤龍夫さんとも懇意になっていた。

僕が中学3年のとき終戦で、その時は岐阜に住んでいたんだが、学校に行く途中に近藤さんの店があったんで、通学途中に週に2、3回、近藤さんの暗室に入って手伝うようになった。中学で写真部を作ってデパートで展覧会をやったり、コンテストに出したりしているうちに高校卒業を迎えてしまって、母が東京出身だったこともあって「早稲田か慶応を受けろ」と言うもんで受けたという次第。

両方とも受かったが、早稲田の写真部が良いから慶応じゃなくて早稲田に行こうと。

[●近藤龍夫/1916―1992年。名古屋生まれ。東京写真学校卒。1938年、岐阜市に「写真技術の店」を開業。「岐阜フォトクラブ」創立、主宰。『近藤龍夫が記録した 昭和』(岐阜新聞情報センター、2003)]

K: 日大にも写真学科はまだ無かったと思うし、今の東京工芸大はもとは写大って言って、二年制だったんだよね。

Т: 僕は写真学校に行くという気持ちは無かったんだが、総合大学で写真やるのに一番良いところはどこだと考えて、早稲田が一番良いと。部員が100人ぐらいいて、例会も良いと聞いていたんでね。

K: 僕が早稲田に決めたのも、すでに写真部が有名だったからですよ。僕は文学部の美術史で入ったんですよ。ろくに勉強してないんだけど。

高校の先生で早稲田出身の人が2人いて、1人は早稲田の図書館長の息子で岡村さんっていって、後に英文の教授になった人ですけど、その人が英語の先生で、担任の国語の先生がやっぱり早稲田の出身で。それで図書館長を知ってて、演劇博物館長の河竹繁俊先生なんかも紹介されて、そういうこともあって成城と学習院とか他も全部受かったんだけど早稲田にしたんですよ。

それで大学入って最初に写真部に入りたくて藤田商会に行ったんです。藤田商会というのは早稲田の卒業写真とか記録写真を撮ってる写真屋さんでね。

[●河竹 繁俊/1889―1967年。早稲田大学英文科卒。坪内逍遥の推薦で河竹黙阿弥の娘・糸女の養子となる。早稲田大学教授。演劇博物館館長。『歌舞伎事典』(監修。実業之日本社、1957)、『日本演劇全史』(岩波書店、1959)など]

Т: あの頃は部室はあったんだけど使ってなくて、藤田商会を部室がわりにしていた。1階はDPEを主体とした写真屋で、2階には畳敷きの部屋が2つ3つあって、そこに部員が集まってゴロゴロしててね。

K: みんな登校しても真っ直ぐ藤田商会行っててね(笑)。

昭和26ー27年頃Т: そうね。昭和26―27年頃の卒業の上級生がいつもいた。久保 昭さん、木村忠直さん、中川一郎さん、横井健次さん、詫間喬夫さん、塚田史雄さん、金田元吉さん、勝川 浩さん、小宮義夫さん、木内昭三さん、栗原一雄さん、中島 渉さん、鈴木良太郎さん、深澤通則さん、秋山誠二さんたちね。当間敏夫さんはなんでも相談できる人で、いつも「人の迷惑になることはするな」って言われてたな。そういう立派な大物がいましたね。

〜当時の写真部の様子はどんな感じだったんですか?

Т: 梶さんの入ってくる前の2年間のことを話すと、例会は大隈会館横の学生食堂の2階で隔月でやってて、1回の例会に200点ぐらい写真が集まって、活動は盛んだったですよ。 あとは、銀座松屋の横にあった「直吉そば」とかでも例会をやったり。

僕が入部して最初の例会の時、高校時代に撮りためてあった風景写真の四つ切りプリント作品を20―30枚出したんだよ。当時は松田二三男さんや稲村隆正さん、村井竜一さん、秋山庄太郎さん、黒川清司さんといった一流の写真家の先輩方に指導してもらっていて、優秀賞の作品を先輩が選ぶのと、みんなで互選で選ぶのと両方あったんだけど、秋山先輩が選んだ1位から10位のうち、4位を除くすべてがラッキーにも僕の作品になったんだよ。それで「すごい奴が入ってきた」と。野球ならジャイアンツの広岡とか長嶋茂雄みたいなものですよ(笑)。

だから上級生が大事にしてくれてね、しかもキャプテン(代表委員)が当間敏夫さんだった。当間さんとは戦時中に縁があってね。写真部の入部の手続きに大隈講堂のすぐ裏にあった藤田商会に行ったら当間さんがいてね、それで写真部に入って、休みなしで写真のことを考えるようになった。

[●松田二三男/1918―2003年。1942年早稲田大学卒。日本写真協会相談役。「全日本クラシックカメラクラブ」初代会長。『光彩瞬時』(日本カメラ社、1992)]

[●稲村隆正/1923―1989年。1946年早稲田大学政経卒。「秋山工房」(早大写真部の先輩秋山庄太郎が主宰)をへて、1947年に三木淳とサンニュースフォトス社に入り、『週刊サンニュース』(名取洋之助が編集)に携わる。1952年からフリー。『踊り子』(朝日ソノラマ、1978)、『昭和写真・全仕事 稲村隆正』(朝日新聞社、1983)など]

[●村井竜一 /1915―1992年。1939年早稲田大学(専・政)卒。「ローライ倶楽部」会長。『接写の秘訣』(共著。双芸社、1951)、『楽しい家庭写真の写し方』(双芸社、1952)]

[●秋山庄太郎/1920―2003年。1943年早稲田大学商学部卒。1953年、林忠彦らと共に「二科会」写真部の創立会員となる。日本広告写真家協会名誉会長、日本写真家協会名誉会長、日本写真芸術専門学校初代校長、日本デザイナー学院校長など歴任。『翳』(自費出版、1943)、『おんな・おとこ・ヨーロッパ』(文藝春秋新社、1960)、『蝸牛の軌跡』(日本カメラ社、1974)、『作家の風貌?159人』(美術出版社 1978)など]

[●黒川清司/1921―1999年。早稲田大学(専・政)卒。『印画仕上げの第一歩』(双芸社、1951)、『目で見る写真教室よい写真・わるい写真を見わける勘とコツ』(綜合科学出版、1977)、『ヌードフォトポーズ百態 裸女をフィルムにキャッチするテクニック』(綜合科学出版、1979)]

K: 松田さんが一番多く部室にいたんじゃない?

Т: 松田さんが熱心にやってくれたね。村井さんはタンクというあだ名があるぐらい図体が大きくて、酔うと大変だったけど気持ちの良い人でね。

K: 本当にタンクだったんだってね。(戦車兵で)戦車乗ってて。

Т: 中国の橋でタンクごと川へ落ちて死ななかったんだから。

K: 岩手の議員の息子とかで、素封家なんですよ。コンタフレックスという35ミリの二眼レフっていう変わったカメラがあったんだけど、その頃はそれで家が1軒買えたっていうカメラを持ってたんだから。それを「都筑! 質屋入れてこい!」なんていって。豪傑でしたよね。

Т: 僕が写真をやるにあたって、やはり近藤龍夫さんと懇意だったというのが大きかった。高校時代には飛騨高山や瀬戸、浜松砂丘の撮影にも付いて行くようになっていて、作品作りに熱中するようになっていた。

緑川洋一植田正治土門拳濱谷浩さんなど大先輩の写真が載ってるカメラ雑誌を見せて、「お前どれが好きだ」と言うわけよ。「この中なら植田さんの写真が一番いい」と言ったら、濱谷さんの写真を指して「これはどうだ」と言うんで「あまり好きじゃない」と言ったら、「こういうのが判るようになったら本物だ」と言われたね。近藤さんはそういう意味でいうと、中部地域にはいろんなクラブのリーダーがいたけれど、あの人が一番インテリで桁違いにうまかったと思うね。

それと、僕は撮影にも熱中したが、一番力をつけたと思うのは引伸ばしの技術。コダブロとフジブロ使って、四つ切り大サイズのプリントには自信を持っていた。

上京するときに近藤さんが「東京に行ったら最初にこことここに行け」と指定してくれたのが、アルスの『カメラ』の編集長の桑原甲子雄さんと、『日本カメラ』の樋口さんと藤川さんだった。 加えて、上京していろんな活動をする基盤ができたのは、樋口さんに「芙蓉クラブ」(プロ・アマの写真サロン)を紹介してもらって、じかに林忠彦さんとか、黒川清司さん、羽田敏雄さんなど、後にプロの一流になったメンバーとおつき合いができるようになったことが大きかったね。

[●桑原甲子雄/1913―2007年。東京市立第二中学校(現・都立上野高校)卒。隣家の濱谷浩の影響で写真をはじめる。1947年、「銀龍社」(写真家集団)に加わる。1948年、『カメラ』(アルス社)の編集長に就き、1950年、月例写真の選者に土門拳を起用。1952年には木村伊兵衛を加え、二人で合同審査する方式にすると同時に、その審査過程を誌面で公開した。これがきっかけとなり、リアリズム写真が提唱されることになった。月例投稿者には東松照明川田喜久治福島菊次郎などがいた。以後、『サンケイカメラ』(産経新聞社)、『カメラ芸術』(中日新聞社)、『季刊写真映像』(写真評論社、発行・吉村伸哉)、『写真批評』(東京綜合写真専門学校出版局)の編集長を歴任。『東京昭和十一年』(晶文社、1974)、『満州昭和十五年』(晶文社、1974)、『夢の町』(晶文社、1977年)、『私的昭和史』(上下巻、毎日新聞社、2013)など]

[●緑川洋一/1915―2001年。日大歯科医学校卒。歯科医師で写真家。1939年、石津良介(写真家・編集者)の推薦で「中国写真家集団」に参加、カメラクラブ「光芒会」を結成。1947年、植田正治と写真家集団「銀龍社」に加わる。『瀬戸内海』(美術出版社、1962)、『現代日本写真全集 瀬戸内旅情』(集英社、1979)、『緑川洋一旅日記』(日本カメラ社、1984)など]

[●植田正治/1913―2000年。鳥取県立米子中学校(現・米子東高等学校)卒。1932年、上京し、オリエンタル写真学校入学、同年帰郷し、米子で「植田写真場」を開業。「米子写友会」、「日本光画協会」、「中国写真家集団」、「銀龍社」などに加わる。1995年、鳥取県岸本町(現・伯耆町)に「植田正治写真美術館」開館。1996年、フランス政府から芸術文化勲章シュバリエを贈られる。『童暦』(中央公論社、1971)、『砂丘 植田正治写真集』(PARCO出版局、1986)など]

[●土門 拳/1909―1990年。神奈川県立第二中学校(現・横浜翠嵐高校)卒。1935年、名取洋之助主宰の第2次「日本工房」に加わる。1937年、早稲田大学卒業アルバムの写真撮影担当(2009年、講談社から復刻)。1950年、『カメラ』(アルス社、編集長・桑原甲子雄)の月例写真審査員となり、リアリズム写真を提唱。『風貌』(アルス社、1953)、『室生寺』(美術出版社、1954)、『ヒロシマ』(研光社、1958)、『筑豊のこどもたち』(パトリア書店、1960)、『るみえちゃんはお父さんが死んだ』(研光社、1960)、『古寺巡礼』(第1―5集、美術出版社、1963―1975)など]

[●濱谷 浩/1915―1999年。上野車坂町生れで、桑原甲子雄は隣家の写友。1933年関東商業学校(現・関東第一高等学校)卒。同年、オリエンタル写真工業入社。1937年、実兄の田中雅夫(写真評論家)と写真スタジオ「銀工房」を開設。1939年、新潟県高田市(現・上越市)の市川信次(民俗学者、「日本常民文化研究所」同人)の知遇を得て、翌年より雪国の習俗を撮影する。1941年、木村伊兵衛の誘いで「東方社」に入社、『FRONT』の撮影に携わるが、途中退社。その後太平洋通信社(外務省の外郭団体)に勤務。戦後は人間と風土の関係をテーマに日本海側各地を取材した。『雪国』(毎日新聞社、1956)、『裏日本』(新潮社、1957)、『怒りと悲しみの記録』(河出書房新社、1960)、『日本列島』(平凡社、1964 )など]

[●林 忠彦/1918―1990年。1935年、山口県・徳山商業学校(現・徳山商工高校)卒。1938年、オリエンタル写真学校卒。1942年、中国に渡り、石津良介らと「華北弘報写真協会」を設立。1947年、秋山庄太郎石津良介らと写真家集団「銀龍社」を結成。1953年、秋山庄太郎らと「二科会」に写真部を創設。『小説のふるさと』(中央公論社、1957)、 『日本の作家』(主婦と生活社、1971)、『カストリ時代』(朝日ソノラマ、1980)、『林忠彦写真全集』(平凡社、1992)など]

[●羽田敏雄/1923―1987年。「バレーの踊り子」でアルス社の『カメラ』特選(1950年度)。 「現代写真展1960年」(東京国立近代美術館、1961)に、石元泰博らと出品]

K: だから都筑さんは、最初からプロっぽかったんだよ。僕らはまったくかわいい坊やだったから(笑)。

あの頃はみんな高校で写真部作ってたね。僕は大森高校出身なんだけど、やっぱり写真部作ったわけですよ。それで高校は池上にあったんだけど、たまたま田中雅夫さんの家が近くにあって、『日本カメラ』なんか見てて、「近所に評論家がいるぞ、行ってみよう」って何人かで行って、田中さんに会ったのが写真の世界に出会った最初ですよね。

だから田中さんとはずいぶんつきあいが長かった。それでも、大学入ってからは遊んでましたね、魚釣りやって、写真撮ってという感じで。

[●田中雅夫/1912―1987年。東京高等工芸学校(現・千葉大学工学部)卒。1937年、実弟の濱谷浩と写真スタジオ「銀工房」を設立。1938年、シュルレアリストの詩人・画人の瀧口修造らの「前衛写真協会」に参加。『日本カメラ』編集長、「日本リアリズム写真集団」副理事長などを歴任。『写真におけるリアリズム』(日本カメラ社、1956)、『写真一二〇年史』(ダヴィッド社、1959)、『写真東京風土記』(毎日新聞社、1964)など]

〜高校時代からお二人とも写真をやって、写真部に入られたわけですが、大学から写真を始めた方もいたんですよね?

Т: いたけどね、同期のメンバーと作品についての話をした記憶がほとんどない。一生懸命上達しようとか熱心な人もあまりいなくて、激論した記憶も無いし、写真展にしても「今度六大学展があるから、誰か作品無いか」という感じで、僕がいっぱい持ってるのわかってるから、結局キャプテンから「出してくれ」って言われて出してたな。

〜都筑さんが1年のときは、同級生の部員は何人ぐらいいたんですか?

Т: 何人いたっけな。深澤通則小島啓佑秋山誠二清水東士飛田良太郎西沢正雄とか、10人ぐらいかな。私が2年、3年生になった頃に多くの個性的な人材が入ってきた。梶原高男雨宮俊一昆田 亨島崎恒樹飯塚 茂山本?一郎野溝直彦くんたちが活発に動き出した。

K: 飛田さんって、ヒゲもじゃもじゃはやしてた人でしょ? 僕が入部したいって藤田商会に行ったときに、飛田さんが出てきて「怖いな?!」って思ったんだよ(笑)。
あの頃は、赤ちゃん連れて大学来る人とか、いろんな人がいて、僕なんて子供だったですよ。同級生でも子供が2人もいる人がいたし。

Т: 昭和15年卒の三木正美さんは東京の競馬会の理事で、学校に来ると「よし、飲みに行こう」ってね、4―5人引き連れて神楽坂あたりで部屋を借り切って、飲ませてくれたよ。

K: 僕はその頃はお酒を飲まなかったから、それはなかった。三木さんとゴルフはしたけどね。

Т: さらに古い先輩といえば岡田紅陽さん。中村泰三さん(1943年卒)は後にアサヒペンタックスに入った。『アサヒカメラ』の編集長やった小安正直さん(1936年卒)も顔を見せていたよ。薗部孝三さん(1947年卒)って知らない? カメラ雑誌の編集長やってた。

[●岡田紅陽/1895―1972年。1917年、早稲田大学(専・法)卒。1923年、関東大震災の被害状況を東京府の嘱託として撮影。1925年、写真スタジオ設立。『関東大震大火記念写真帖』(東京図案印刷、1923)、『岡田紅陽の富士百影作品集』( 第1―10輯、審美書院、 1932?34)、『台湾国立公園写真集』(台湾国立公園協会、1939)など]

K: 「イブニングスター」にいたんですよ。確か『カメラファン』の編集長。

Т: 五十嵐亮二さん(1947年卒)はOB会の名簿を作ってくれた印刷会社で、富留宮照男さん(1949年卒)は「浅沼商会」にいた。当間さんは富士フイルムに入った。その前に、写真部の先輩が富士フイルムにはずいぶん入ってるんだよ。宣伝部長をやってた杉 一郎さん(1934年卒)、山本正典さん(1939年卒)、牛田 昇さん(1939年卒)、内田政太郎さん(1939年卒)たちだね。

〜現像などはどうされていたんですか。

Т: 当時は部室で写真を焼いたりというのはあまりしなくてね。

K: でも商学部の地下に暗室あったでしょ?

Т: あったけど、僕はほとんど使わなかった。安藤 勝さんという、カメラ雑誌の月例で毎月賞を取ってるような人が、東中野でカメラ店をやっていて、僕は中野に下宿してたから、そこの暗室使わせてもらっていた。それから『日本カメラ』の樋口さんの家が西荻窪で、僕の一番最初の下宿が、線路挟んだすぐ前で、挨拶に行ったら「近所だから家の暗室使っていいよ」って言われて使わせてもらった。

K: 僕は写真部の部室の暗室で伸ばしやってましたよ。トイレの下にあって、天井からポタポタ水がたれてね(笑)。汚くて。

Т: 部室をきちんと部室らしく使い始めたのが、梶原くんや雨宮くんとか2年下の学年だよね。

K: 僕は技術委員だったんですよ。だから伸ばしとか一手に引き受けて、仲間の引伸ばししてましたね。その方が早いもん、教えるより。

入部して最初の例会で僕が1等とっちゃったんです。それがいけなかったっていうか(笑)、それで一生写真につきあうはめになっちゃった(笑)。

〜お二人とも月例は?

K: 月例は大学3年の時にやってます。渡辺義雄さん審査の『日本カメラ』を。それで1年やって、年間ベストテンの1位とったんです。

[●渡辺義雄/1907―2000年。1928年、東京写真専門学校(現・東京工芸大学)卒。1930年、木村専一の「新興写真研究会」に加わる。1931年、オリエンタル写真工業の『フォトタイムス』の撮影・編集に携わる。1950年、「日本写真家協会」の設立に尽力。エドワード・スタイケンによる「The family of man」日本巡回展の実行委員長を務める。日本写真家協会会長(1958―1981年)、日本大学芸術学部写真学科教授、東京都写真美術館館長など歴任。『皇居』(トッパン、1949)、『伊勢神宮』(平凡社、1973)など]

Т: 僕は大学入る前の高校のときに、近藤さんが出せ出せっていうんで、1、2年の時に出したら何度も入選した。『カメラ』と『カメラファン』と『フォトアート』なんかに出してたね。

K: 稲村不二雄くんが僕が入選しているのを見て、じゃあ僕もやるっていって、玄光社の『写真サロン』やったの。それで2位をとったんじゃないかな。

そのときのモデルで写真のうまい子がいて、それが朝日の秋元啓一[1930―1979年。元・朝日新聞出版写真部長]さんの彼女で、ダイちゃんっていってね。モデルだからどこでも女の子の部屋にも入れるじゃない。それで撮影して、それを秋元が選んでプリントして出すから、彼女の方が確か1位になっちゃったんじゃないかな。

Т: 僕の前の部員たちは旧制大学で、新制に移行した初めての年が僕。戦後の教育改革で、旧制と新制が混在していて、旧制の人が作るのは大体サロンピクチャーでね。小鳥が籠の中にいるとか、空に雲が浮かんでるのとか。例会でもそういう写真がほとんどでしょ。

戦後の僕らは、爆弾の大きな穴が開いた工場の焼け跡にボロボロの服をまとった少年がいるとかね、そういうリアリズム調を取り入れたりした。モチーフとして海外の写真を見た影響もあって、風景でも熱中して意欲作に取り組んだ。

K: 造形的な風景写真ね。

〜学生時代はどうやって写真を学んだんですか? 映画などは良く観られましたか?

K: 映画もよく見ましたよ。当時はヨーロッパ、フランスやイタリアの映画が主流でね。だから僕はニューヨークよりパリに憧れてたね。パリのモンマルトルの角のところに犬がいたなとか(笑)、写真に写っていたそういうの覚えてて、初めてパリに行ったときに「ここに犬がいたな?」って、そんな見方してましたね。

アルベール・ラモリス監督の「赤い風船」って映画知ってる? あれは童話っぽいけどシュールで。あの頃僕はシュールが好きだったんですよ。奈良原一高もそうだし。彼は中大だったけど、卒業してから早稲田の大学院の芸術に来たんですよ。法律家の息子で中大行かされて、でも写真やりたくて、今でも覚えてますけど、コニカか何か持ってね。こっちがちょうど卒業するころで、すれ違いなんですけどね。

[●奈良原一高/1931年―。中央大学法学部卒後、早稲田大学大学院在学中の1956年、軍艦島などに取材した個展「人間の土地」を開く。1959年、「VIVO」同人に加わる。『ヨーロッパ・静止した時間』(鹿島研究所出版会、1967)、『 ジャパネスク』(毎日新聞社、1970)、『王国』(中央公論社、1971)、『消滅した時間』(朝日新聞社、1975)など]

Т: あの頃、映画と同じぐらい、カメラ雑誌の影響は大きかった。よく見たね。何ページに誰のどんな作品があるか、全部頭に入ってたし、批評家の書いてる言葉や文章も全部頭に入ってて、それをテーマにしてプロの写真家なんかと議論したりしていた。生意気だったね。

K: あの頃は写真評論家という職業があったけど、今はあまりいないでしょ? 昔は批評家協会なんてのができたんだからね。評論家が何人もいたからできたんでしょ? あの頃には東京綜合写真専門学校って学校ができて、あれはその批評家協会でセミナーやったら人が集まったんですよ。これなら商売になるっていうんで、重森弘淹玉田顕一郎らが作った学校なんですよね。

[●重森弘淹/1926―1992年。同志社大学文学部卒。写真評論家。「表現とは、作者の批評行為であり、それなくして表現は存在しない」の理念から、1958年に東京フォトスクール(現・東京綜合写真専門学校)を創立。『現代の写真』(社会思想社、1962)、『写真芸術論』(美術出版社、1967)、『写真の思想』(潮出版、1972)、『カメラ・アイ 転形期の現代写真』(日貿出版社、1974)など]

[●玉田顕一郎/1929―1994年。1958年、重森 弘淹渡辺勉らと「東京フォトスクール」(現・東京綜合写真専門学校)創設。1959年、『写真サロン』(玄光社)編集長。1955年より『ロッコール』(ミノルタ)の編集長を没年まで務めた]

<一流の写真家や著名な写真評論家を招きセミナーを開くなど活動はますます盛んに>

〜土門拳さんの影響は大きかった?

K: 大きかった。当然、木村伊兵衛さんもそうで、二人がアルスの『カメラ』(編集長・桑原甲子雄)の審査員やってたから。日本中のアマチュアがみんな土門さんの毒気にあてられて、リアリズムや社会主義になっちゃった(笑)。木村さんの理論武装は伊奈信男さんがしていて、「写真に帰れ」(『光画』1巻1号、1932)なんて有名な原稿がありますけど、サロニズムというのは全否定された時代ですよ。

 

[●木村伊兵衛/1901―1974年。1932年 、写真雑誌『光画』を野島康三らと発刊。1933年、名取洋之助主宰の「日本工房」に、伊奈信男らと参加。1934年、伊奈信男ら と「中央工房」を設立。1941年、対外宣伝プロダクション「東方社」の写真部責任者に就任。1942年 、『FRONT』の制作・発刊に携わる。? 1950年、日本写真家協会初代会長となる。1952? 年、土門拳と『カメラ』(アルス社)の月例写真を合同審査。『木村伊兵衛写真全集昭和時代』(全4巻、筑摩書房1984)、『定本木村伊兵衛』(朝日新聞 出版、2006)、『木村伊兵衛のパリ』 (朝日新聞社、2002)など]

[●伊奈信男/1898―1978年。東京大学文学部美学美術史学科卒。1932年、『光画』の同人に加わる(2号から)。1933年、木村伊兵衛名取洋之助主宰の「日本工房」に参加。翌年同社を退き、木村らと「中央工房」を設立。戦後は写真評論家として評論・論文を写真雑誌に寄稿することを続けた。『写真・昭和五十年史』(朝日新聞社、1978)、『写真に帰れ?伊奈信男写真論集』(大島洋・編、平凡社、2005)]

[●写真のリアリズム/戦後史におけるリアリズムを、桑原甲子雄は次のように回想している。「私は昭和二三年からアルスの『カメラ』という雑誌にかかわっていて同氏[木村伊兵衛]とはにわかに身近になっていった。二七年には土門拳と月例写真の共同審査を一年間担当してもらった。一方若手の写真家とともに「集団フォト」展をひらいて戦後写真のありようを示した。しかし木村、土門ともどもアマチュアとの交流に深入りしていくのを傍から私はハラハラしながら眺めていたことがある。やがて土門は「ヒロシマ」に打ちこみ、木村は[29年に]渡欧してカルチエ・ブレッソンに会い、彼の作風に深く共感し、それがその後の仕事の糧となったのだろう(『私の写真史』、晶文社)。土門拳と木村伊兵衛が「アマチュアとの交流に深入り」した記念碑の一つが『リアリズム』創刊号(全日本カメラクラブ、昭和28年11月25日発行)である。編集長は桑原甲子雄。執筆陣には伊奈信男(「アンリ・カルティエ・ブレッソン論??決定的瞬間を中心に」)、田中雅夫(「ブレッソンにおける二つの問題点??空間処理とオリエンタリズム」、「戦後の月例写真」)、福島辰夫(「人間的真実の豊かな結晶??現代の錬金術師ブレッソン」)、土門拳(「写真のリアリズムについて」)、桑原甲子雄(「月例作家の責任と自覚」)、渡部勉(「月例作家論・堅実な歩調で成長してきた工藤正市氏」)、三浦幸一(「「現代写真展」は何を意味するか」)]

〜部員で合宿に行ったり、撮影会に行ったりということはあったんですか?

K: 合宿の元祖は僕ですよ。それまではそういうことあまりしてなかったから。都筑さんは来なかったけど(笑)、夏は美ヶ原とか山へ合宿に行って、冬はスキー合宿して。体育の授業でシーズンスポーツというのがあって、スキーとスケートなんかがあって、スキーは人気があるからなかなかとれないんですよ。

それでみんな1年生に並ばせて、みんなシーズンスポーツとって、授業は野沢温泉でやってたんですけど、半分以上が写真部のメンバーだった(笑)。それで、スキー部の連中が教えるわけでしょ、それを写真部のメンバーが写真撮るから、みんないらっしゃいという感じで優遇してくれたんです。みんなカメラ持ってって、写真撮りながら教わって単位もとって(笑)。 ともかく遊びを取り入れたのは僕たちの学年ですね。その前はもっとまじめだった。

Т: 僕は学生時代の印象的な思い出というと、上級生から「時間のかかる問題はお前がやれ」と言われたことですね。先輩は卒業まで間がないから。

それでみんなに「何がやりたいか」と聞いたら、有名な一流写真家や評論家の話を聞きたいと。セミナーのようなものね。それで伝手を頼って、田中雅夫重森弘淹渡辺 勉伊藤知巳といった写真評論家に早稲田に来てもらって話をしてもらおうとなって、濱谷 浩さんには絶対来てもらいたいっていう声が大きかったので頼んだんだよ。そうしたら「私はプロだから学生やアマチュアの指導はしない」って断られて。

[●渡辺 勉/1908―1978年。岐阜県立中津商業卒。1946年、『世界画報』編集長。1958年、東京フォトスクール(現・東京綜合写真専門学校)を重森弘淹玉田顕一郎らと創立。 『組み写真の写し方纒め方』(アルス 、1941)、『今日の写真 明日の写真』(東京中日新聞出版局、1964)、『写真・表現と技法』(ダヴィッド社、1966年)など]

[●伊藤知巳/1927―1986年。写真評論家。1947年早稲田大学文学部入学。1950年、叔父の土門拳の助手になる。1955年、アルス社『カメラ』編集長。1957年、アルス社退社、写真評論家になり、日本写真批評家協会(初代会長・木村伊兵衛)の設立に参画。1967年、「日本リアリズム写真集団」(JRP)事務局長。1974年、JRP付属の写真学校「現代写真研究所」(所長・田中雅夫)の設立に参加、教務主任。1983年、「土門拳記念館」の設立準備委員、顧問]

K: あの頃の大スターだからね。

Т: それで大磯の家まで押しかけて行ったら、僕の母親と同じ歳の奥さんがいろいろ助けてくれた。濱谷さんは田中雅夫さんの実弟なんだけどね。

K: 田中雅夫さんは養子で田中家へ行ったんですよ。田中家は大森の大きな海苔屋でね。質屋の桑原さんと濱谷家は隣同士でね。田中さん、濱谷さんの実家は上野の車坂署の刑事で、桑原さんいわく、「赤貧を洗うがごとき家」だったって。だからあの頃は子供をけっこう養子に出したんですよ。

Т: 僕が濱谷さんの家に行ったら、奥さんが「父ちゃん、こんなかわいらしい学生さんが来て頼んでるんだから、行ってあげてよ」って言ってくれたのよ。それで濱谷さんが初めて来てくれて。そういう写真教室をやるようになって。

「全日本学生写真連盟」作ってからは、東北だとか北陸なんかにも同行して、一緒に旅館に泊まって、こっちは若さのせいで、生意気で失礼をわきまえず議論をふっかけたりしてね。そういう一流の講師から学んだことが多かったね。

それだけ早稲田の写真部の活動が盛んだったから、例会へ顔を出させてくれと言って、ほかの大学の写真部員が来ることも多かった。横浜国立大から佐藤 明くんとか、愛知大の東松照明くんとか、立命館の早崎 治くんとか。

[●佐藤 明/1930―2002年。 横浜国立大学卒。1959年、「VIVO」に参画。『女』(中央公論社、1971)、『バロック・アナトミア』(河出書房新社、1994)、 『フィレンツェ』(講談社、1997)、『プラハ』(新潮社、2003)など]

[●東松照明/1930―2012年。愛知大学在学中、全日本学生写真連盟の結成に関わる。「名古屋出身で早稲田の写真部の代表委員をしていた詫間喬夫さんが、東京から手土産みたいに、「全日本学生連盟」の結成という話をもってきました。中部地方には組織がなかったので、まず名古屋を中心とした「中部学生写真連盟」を結成し、全国の地区ごとに連盟が組織された段階で全日本に統合しようということになった」(『日本の写真作家30  東松照明』、飯沢耕太郎、岩波書店)―注 詫間さんは代表委員ではなかった―。その一方で、リアリズム写真運動に興味を持ち、『カメラ』の月例写真(アルス社。編集長は桑原甲子雄。選者は土門拳木村伊兵衛)に応募した。卒業後、名取洋之助の携わる『岩波写真文庫』写真部に入る。1956年、退社し、フリーとなる。「VIVO」同人。『hiroshima-nagasaki document 1961』(土門拳と共著、原水爆禁止日本協議会、1961)、『〈11時02分〉NAGASAKI』(写真同人社、1966)、『太陽の鉛筆 沖縄・海と空と島と人びと・そして東南アジアへ』(毎日新聞社、1975)、『昭和写真全仕事  東松照明』(朝日新聞社、1984)など ]

[●早崎 治/1933―1993年。立命館大学卒。東京オリンピックポスター3部作(1962―1963)、大阪世界万国博覧会・EXPO’70ポスター製作(1970)など。日本広告写真家協会会長などを歴任]

K: 早崎 治くんは僕と同級なんだよね。あの頃は早慶展や六大学写真展の他にも早稲田と立命館が交歓展をやってたんですよ、京都と東京で。それから慶応と同志社もやってた。だから交流があって、京都に呼ばれて行ったり、京都から呼んだり。早崎 治くんは仲間でしたね。

〜交流展は戦前からあったんですか?

K: あったと思いますよ。写真って、当時の最先端の遊びだったんですよ。写真部か自動車部かってね。僕が早稲田入ったときの自動車部はダットサンの古い中古車が1台しかなくて、それを大隈講堂の前で直してたんだけど、動かないんだよね(笑)。それをみんなで押したりしてましたよ。

写真部も中古カメラしかなくてね。それをみんな使ってたんです。それでも両方とも遊びとしては最先端だったんです。その次にはやりだした遊びがスキーなんですよ。

〜部員はどんなカメラを持ってたんですか?

K: 戦前の中古しかなかったけどね。まだニコンも出る前だし[注:「ニコンS」の発売は1950年。「ライフ」誌のハンク・ウォーカーが朝鮮戦争取材に用いて、その優秀性を『ニューヨーク・タイムズ』に記した]、国産のカメラはほとんどなかった。

Т: 僕は二眼レフが多かったね。ローライコード、ローライフレックスを持ってた。部員もリコーなどいろいろだったが何か持ってたな。

K: それはかなりの金持ち。僕も二眼レフだったけど、ベビーローライってベスト判のローライがあって、4×4判の、それで撮ったやつで月例の1位とったんです。僕がそのころ凝ってたのが、フラッシュ撮影。当時はストロボなんてないので、フラッシュをシンクロさせなくちゃならないでしょ。

でもシャッターにシンクロ接点がついてないんですよ。だからどうするかというと、僕が入り浸ってたのは、新橋の「村上商会」っていうカメラ屋で、今のケンコーの前身なんだけど、そこで番頭さんが色々教えてくれるわけ。

それで、レリーズ穴にいれてソデノイドっていって、マグネットでピッと押す、スピグラについてたでしょ。あれを外からつけられるようなのを作ったわけ。それを買って一生懸命シンクロさせて、それで親父の顔を撮ったんですよ。f22に絞って、フラッシュで、バリバリのピントで。

それが元なんですね、僕の写真の原点。僕はメカニズム好きだったからね、今の人は写真に入るのに表現とか難しいこというけど、あの当時はほとんどカメラ好きから入ってた。カメラいじりが好きで、写真部に入るという人が8割方だった。

Т: 写真部の部長だった今 和次郎さんというのは理工学部の建築の先生で大変有名な人。齋藤鵠兒さんも数多くの写真の本を出版している。昭和11年卒の鈴木泰全さんは朝日新聞の関西のボスね。杉 一郎さん(1934年卒)、当間敏夫さん(1950年卒)、山本正典さん(1939年卒)、牛田 昇さん(1939年卒)、内田政太郎さん(1939年卒)も富士フイルムで、フジカラーサービスの庄野 耕くん(1960年卒)も稲門写真クラブのバックアップに大変注力した。織田 浩さん(1946年卒)は岩波書店の写真文庫にいた。

[●今和次郎/1888―1973年。「考現学」の提唱者。1912年、東京美術学校(現・東京芸術大学)図案科卒。早稲田大学理工学部建築学科教授。早稲田大学写真部の部長で、『早大写真部通信』創刊号(1952)の発刊の辞を書いた。写真に対する造詣が深く、関東大震災直後には上野公園に建てられた罹災者のバラック建築をたんねんに撮影している(工学院大学所蔵)。日本生活学会会長、日本建築士会会長などを歴任。『日本の民家』(岩波文庫)、『新東京案内』上下巻(ちくま文庫)など]

[●齋藤鵠兒/1893―?年。1917年、早稲田大学商学部卒。写真雑誌『写真サロン』(玄光社)編集長。『引伸の秘訣』(『写眞実技大講座』第11卷、玄光社、1937)など]

K: うまい人だったね。

Т: 岩波のコネは彼のおかげだったね。

<ダンパで部費の資金を集め小遣いやバイト代もやりくり>

〜印画紙代やフィルム代にお金がかかって、後輩の僕らはバイト代を写真につぎこんでましたが。 

K: やはり小遣い全部つぎこんでましたよ。当時は月に親から2000円ぐらいもらってたかな[注:1955年の大卒初任給はおよそ13000円だったという(『物価の文化史事典』)] 、それしかなかったけど。

だから印画紙も普通の印画紙は使えないから、B級というのがあったんです。印画紙って大きいサイズで作るでしょ? その真ん中のいい部分だけとるわけ。そうすると端の部分は、富士フイルムが作ってても富士じゃ売れないから、それを買って売る商売があったんですよ。新橋にあった愛光商会とかね。フィルムも端をライトパンという名前にして。そういう短尺の20枚撮りぐらいのは安かったんですよ。

印画紙は月光のB級なんかが、神田のちっちゃなカメラ屋で売ってた。そこまで買いに行って。B級品のキャビネで250枚入り1箱とか。当時は日本のサイズは四つ切り、キャビネでしょ。もう一つのルートは進駐軍。進駐軍の写真室から8×10て、僕は知らなかったんだけど、インチだから六つ切りね、それを米軍の写真室にいた兵隊が小遣い稼ぎに持ち出して売りに来るわけですよ。その闇ルートから買ったり。

まともに普通のカメラ屋さんで売ってる普通の印画紙なんて使ったことなかったもん。みんなB級品で。でもB級でもほとんど大丈夫でしたけどね。

Т: 僕はそれ程材料には不自由しなかったね。大学1年のときの夏に近藤さんのカメラ店で半月ぐらいバイトした。米軍の御殿場演習場で米兵の写真を撮るんだ。毎朝演習に出る前に米兵たちの写真撮るのよ。それをプリントして、帰ってきたときに渡すというバイトで、いいバイトだったね。

当時は食べるものにも困っていたんだが、缶詰なんかくれてね。2―3年やった。そのときは、進駐軍の仕事だから全部コダブロだったね。

K: フィルムも苦労しましたよ。レントゲンのフィルムで写したこともあった。 レントゲンフィルムは厚くて固くて、あれを暗室に入ってロールに巻くわけですよ。リーダーペーパーなんて捨てないで何度も使った。絆創膏貼ってね。そうするとバネみたいになっちゃうのね。

僕はベスト判っていって、127ってブローニーより少し幅の狭い細軸のフィルムがあって、そのカメラ使ってたから、それに巻くと本当にバネみたいになっちゃって。現像も現像タンクなんてないから、キャビネの皿でやるわけですよ。片手離すとバシャッてはねちゃって大変だったですよ。

〜ほとんどの部員は梶原さんと同じような感じで、都筑さんは特別だったんですね。

K: 都筑さんは割とプロっぽいんですよ。近藤龍夫さんのおかげで、非常にプロに近い世界にいた。こっちはアマチュアでしたけど。

〜都筑さんからお借りした資料に、卒業時に都筑さんとあと2人同級生が写っていて、都筑さんだけブレザーで、あとお二人は学ランに角帽なんですよ。そういう感じだったんですか?

K: 僕も角帽は買ったけど、ほとんどかぶらなかったな。親父の古着の背広着て、ベレー帽かぶって。

〜我々が学生のときはダンスパーティーをやって資金稼ぎしたんですが、都筑さんが始められたんですよね。

Т: 当時、部にお金がないから、ダンパをやることになって、お前ダンス踊れるかって当間さんに聞かれて、「できません」って言ったら、「それならどこかで習ってこい」と。

そんな時、偶然東中野に行くときに駅でビラをもらったら、ダンス教室オープンと書いてあったんで、すぐに習いに行ったの。そしたらそれが早稲田のダンス部の元キャプテンが開いた教室だった。二階に空き部屋もあるというんで、その時丁度新しい下宿を探してたもんだから、そこに入ったのよ。そしたら下のホールから音楽が聞こえてきて、勉強どころではなくなったな。

最初は生徒は僕一人で、「今度ダンスの早慶戦をやるから、出してやるけどやるか」と言われて、今の銀座三越の裏にあった「ミマツ」(ダンスホール)でやったダンスの早慶戦に出してくれたのよ。慶応6人、早稲田6人で、僕はクイックと何か2種目やったけど、7位になってビリじゃなかったんだよ。

それから毎年ダンスパーティーを企画すると「お前やれ」って言われて。 どこの大学もやっててね、パーティー券を作ってドレメだとか女子学生のいる学校に顔のきく部員に10枚ずつ持たせて、売ってこいなんて言って。東中野にあったダンスホールなんかも毎週学生がダンパやってたし。

K: 僕1回ね、青山学院とやったダンスパーティーのとき、都筑さんが僕に競技の写真撮ってくれって。言ったの覚えてない?

Т: 覚えてないな。

K: それで撮影に行ったんですよ。ダンスなんか全然知らないのに(笑)。ちょうどペギー葉山が出たばっかりの頃で、彼女歌唄ってさ、都筑さんは踊ってたよ。

[●ペギー葉山/1933年―。1949年、青山学院女子高等部(現・青山学院高等部)2年の夏休みから米軍キャンプでジャズを歌い始めた。1952年11月、「ドミノ/火の接吻」(キングレコード)でレコードデビュー]

Т: 雅叙園などでやった学生コンペや早慶戦では優勝して、東日本の学生選手権のタンゴ部門でチャンピオンにもなった。1年の春にダンスを始めて、クリスマス終わるぐらいかな、1年ぐらいでやめちゃった。下宿もダンス教室の上から出ちゃったし。

〜ダンパのほかに資金稼ぎしてましたか?

K: 僕は全然お金の方はノータッチで、経理は三井銀行に行った島崎恒樹だったからよく知りません。僕の時代はキャプテン(代表委員)が飯塚茂、渉外が富士フイルムに行った雨宮俊一で、技術が僕という役員構成で、スキーなんかは、北海道の島宗健一って指導員やってたのがいて、彼がいるから早稲田のスキーはよその大学に比べてレベルが高かったわけ。

Т: 山本?一郎くんの家知ってる? 明石の塩田で。

K: 大金持ちでしょ。

Т: 1日泊めてもらったら、親父さんが出てきて「うちの息子が世話になってます」ってお土産くれたのよ。家で見たら、今も使ってるけど、陶器の名品で。僕が1年上の先輩だけどね、あれを見たときにすごいなと思いましたよ。

K: 写真部はすごい貧富の差があったけどさ、それでもみんなで遊べたし。慶応はほぼ全員大金持ちだったよね。一流会社の社長の息子が多かった。

今でも印象に残ってるのが、早稲田に塚田って言ったかな、下駄屋の息子がいて、スキーに下駄履いてくるんだよ(笑)。この寒いのにお前下駄かって。それがチビた下駄で、上野駅で割れちゃって。それ捨てるかなと思ったら持って帰ったもんね。そんな時代だったんですよ。

スキーに6―7人で行って、帰り上野駅で全員あわせても100円しか残ってなかったりね。だから帰りに駅の牛乳買って飲むんだけど、飲み終わった瓶を買ってくれるんですよ。それで車両の中回って瓶を集めてきて、それを売って牛乳買って飲んで、あとは飲まず食わずで(笑)、それでもスキー行ったんですよ。

<早大写真部が中心となって全日本学生写真連盟が誕生>

〜都筑さんが学生写真連盟を作ったきっかけは?

Т: 東京六大学なんかは展覧会をやったりしてたんだけど、「地方の学生と横のつながりがほしいので組織を作ってほしい」という声が昭和25(1950)年春頃からちょこちょこ出てきてたんだよ。

東京は「関東学生写真連盟」を昭和26年6月に結成してたんだが、東北大学写真部のキャプテンと西沢正雄くん(1953卒)が高校の友達で、彼が声をあげてね。関西では南村康弘くんや阪大の大村巳吉くん、九州では西南学院のキャプテンを知ってた。それで、組織を作るにしても2―3年はかかるだろうから、若い1―2年生でやれということになって、「お前しかいない」と私がキャプテンに指名されて、連絡だとか始めたのね。

その頃、東松照明くんと斉藤良吉くんが愛知大学の写真部で熱心に活動していたんだが、斉藤くんから手紙が来たので、全国をまとめるようにするからと言って、本格的に動き始めたんだよ。1年以上かかったかな。

まずは富士フイルムへ行ってお金を出して欲しいと頼んだ。宣伝部の吉田祥次郎さんが担当だったと思うんだけど、富士は先輩が多かったからか話に乗ってくれて。それなら新聞社も入れようということになって、朝日新聞にも声をかけてくれたんだよ。

全国、北は北海道から南は九州まで参加を呼びかけるための資金援助を富士に頼んで、主力大学をリストアップして手紙を出しておいて、夏休みの間に名古屋から関西、岡山、四国は松山、九州は博多で西南学院、熊本まで行って帰ってきた。

東北は東北大学のキャプテンの実家が東京だったから、行かないでも用が済んだ。北海道はまだバラバラで、どこの大学が代表かは決まってなかった。全国組織を作るから上京して欲しいと各大学に呼びかけたら三々五々代表が上京して来た。東松くんは岩波に行く用事もあって、私の中野の下宿に泊まったりしていた。大阪は関西学院の南村くんに連絡とったな。

会長をどうするかということになって、富士フイルムと相談したら金森徳次郎さんがいいだろうということになった。何かコネクションがあったらしい。昭和27年5月5日に朝日新聞東京本社講堂で結成式を開催したが、金森会長はじめ全国各連盟代表と関東の各大学代表が約100名出席して盛大に行われた。

〜初代委員長を都筑さんがやることになった経緯は?

Т: 結成式の前の準備委員会で「早稲田が中心にならなきゃ事が進まない」ということになって、初代委員長を僕が引き受けさせられることになった。事務所は藤田商会に置いた。

K: 僕の代は雨宮俊一くんが渉外で、連盟関係は全部やってたから、僕は知らないんだけどね。

Т: 二年目からは山本?一郎くん、次に雨宮くんを委員長にしようという計画だった。福田盛明くんなども会報に作品を出すなど積極的に動いた。東京じゃないと情報発信も全国まとめるのもできないからね。

会報に金森さんが「ペンのみが剣より強力か」って名文を書いてくれて、田中雅夫さんには「学生写真はどうあるべきか」を書いてもらったりした。行事としては、第一回全国学生写真連盟展を昭和27年11月11日から16日まで、上野松坂屋で開催し、全国各地から183点もの作品が出展された。

展覧会が終わって、東大写真部の幹事長の平松好敬くんと、中央大の佐藤 晃くん、あとは田中雅夫さんなどが加わって、銀座の「らんふぁん」というコーヒー店に集まって反省会をやった。

K: 「らんふぁん」は銀座教会の裏にあって、写真家が集まってたんですよ。だから僕なんかも銀座に行くとそこへ行って、三木 淳さんとか稲村隆正さんとかが喋ってるのを聞いてたり。そこがたまり場でしたね。

みんな若くてね、アマとプロの関係も今のように画然としてたわけじゃなくて、ごちゃまぜなんですよ。写真雑誌も口絵写真がプロが少ないから作れないんで、学生やアマチュアの写真を使ってた。早慶展は三越でやってたんだけど、その頃、岡田茂さんって慶応OBで宣伝部長をやってて、のちに社長になったんだけど、岡田さんが世話してくれて、いつでも借りられたの。三越でやると、初日に写真雑誌の編集長が見にきて「これとこれ持ってこい」とか言われて、「売れた!」なんてね(笑)。

[●三木 淳/1919―1992年。1943年、慶應義塾大学卒。在学中から「国際報道工芸」にて亀倉雄策土門拳に師事。1947年、友人の稲村隆正とサンニュースフォトス社に入り、極東軍事裁判を担当。1948年、INP通信社に移る。1949年、タイム・ライフ社に移る。1950年、「集団フォト」を結成(顧問は木村伊兵衛と土門拳)。日本写真家協会会長、日本写真作家協会会長。『三木淳写真集 サンバ・サンバ・ブラジル 』(研光社、1967)]

[●岡田 茂/1914―1995年。1938年、慶応義塾大学を卒業、三越百貨店入社。店長時代にヤングファッションなどで営業成績を上げた。1972年、三越社長に就任。ワンマン体制を敷いたことから、岡田天皇と呼ばれたが、1982年のいわゆる「三越事件」で解任された]

<学生らアマチュアが写真界を牽引していた時代>

〜その時代はアマチュアが牽引してたと言えますか?

K: その頃プロの写真家って10人ぐらいしかいなかったんですよ。フリーの写真家なんて、木村伊兵衛さん、土門 拳さん、濱谷 浩さん、林 忠彦さん、松田二三男さんぐらいで。稲村隆正さんなんてまだ学校出たばかりの新進の写真家。まだグラフ誌なんかなくて、週刊誌もほとんど無いに等しい時代だったんですよ。

Т : ジャンルが少なかったからね。ファッション、人物、風景などがほとんどだった。稲村隆正さんは女の写真で有名だったけどね。

K: あとは映画スターね。稲村さんは「女撮らせたら稲村だ」っていうぐらいで、あの人はすごくダンサーが好きなんだよね。奥さんも確か日劇のダンサーだった人で。

Т: 僕は秋山庄太郎さんの仕事の助手はやったことないけど、稲村隆正さんの助手は1年の夏にずっとやってて、いろんな処に連れてってもらい、「らんふぁん」なんかでコーヒー飲んでいるうちに三木 淳さんとも知り合えた。濱谷 浩さんの助手として裏日本の撮影に同行できたのは大変勉強になった。

K: 「らんふぁん」は早稲田と慶応の先輩のたまり場だったから。土門さんは来なかった。

新橋に原島さんという人がやってる喫茶店があって、原島さんは『カメラ』(アルス社)の月例でトップとってるアマチュアなんですけど、確か皇居前の争乱事件[注:血のメーデー事件。1952年5月1日、戦後はじめてとなるメーデー(第23回メーデー。1936年以降禁止されていた)で、使用不許可とされていた皇居前広場に突入したデモ隊が警官隊と衝突。2人が死亡した]のとき、僕はちょうどその喫茶店にいて、土門さんが「ついてこい!」って言って、ぞろぞろ6ー7人ついて行って写して、帰ってきてから警官に殴られた話とかしてて、僕はあんまりそういうの好きじゃないから行かなかったけど。

Т: あの頃は写真家がみんなそういう写真撮ったよ。国会議事堂前で東大の女子学生の樺 美智子さんの事件があったとき、僕は青山一丁目の今の青山ツインタワービルの近くに住んでいて、朝パンパンって戸をたたく音がするから何かと思ったら、濱谷 浩さんが居て「ここから写真撮りにいくから泊まらせてよ」っていって、寝泊まりしてったこともあったな。

[●樺美智子/1937―1960年。共産主義者同盟(ブント)の一員として1960年の安保闘争に参加した東大生。同年6月15日、全学連のデモ隊が衆議院南通用門から国会に突入したとき、警官隊と衝突。混乱の中で死亡した]

[●濱谷浩は1960年の安保闘争に取材した写真集を『怒りと悲しみの記録』の書名で、河出書房新社から同年に刊行している]

K: ある時アルスの『カメラ』から写真部に注文がきて、早慶戦を撮影して組写真にして何ページかのせたことがあったりしましたね。あの頃はプロが少なかったから、アマとプロの関係っていっても、ほとんど学生やアマチュアが日本の写真界を作ったんですよ。

戦前はもちろんそうだけど、戦後も中心になって動いてたのはアマチュアでしたね。その代表格が桑原甲子雄さんで、『カメラ』の編集長やってた。

Т: あの人はいい人だった。桑原さんには生意気なこと言ったなあ。東北に行って朝市だとか、北海道で積丹半島なんかを一生懸命撮ってきて、『カメラ』誌に載せてもらえないかと思って見せたんだよ。そしたら「この写真いいから見開きで」とまで言ってくれたんだけど、僕は「それはダメです。『アサヒカメラ年鑑』の公募に応募する予定ですから」って言って(笑)。

K: それはマズイよ(笑)。

Т: それで『アサヒカメラ年鑑』に出したら、木村伊兵衛さんが審査員で落とされちゃって。

K: 結局日の目を見なかったの?

Т: そう。別の積丹半島の岩かなんか撮った作品が入ったけど、その写真はあんまり好きじゃなかったんだよ。木村さんは東北の風俗や生活・女性をテーマにした写真撮ってたから、目が肥えてたんだね。

K: 大体同じジャンルの写真は落とすからね。

Т: 今思えば桑原さんによくあんな厚かましいことを言ったなと。それにあの人怒らないんだよ。「そうか」っていってね。

〜学生たちがかなり大きな役割を果たしていたということですが、地域差というのはありましたか?

K: 学生がそのまま社会人になってアマチュア写真家として各地方で活躍してましたね。 地域差はありましたよ、それは。写真ジャーナリズムがあったのは東京だけでしたから。今でも大阪があまりパッとしないのは、ジャーナリズムがないからなんですよ。大手出版社もないし、新聞も関西本社なんていっても大きな支局だから。日本というのはそういう意味では一極集中なんですよ。

〜会報には全国まんべんなく作品が掲載されてますが。

Т: いいものから載せるというよりも、各地域から選ぶようにはしてましたよ。それは、「全日」(全日本学生写真連盟)の目的が、実力を持った写真愛好者を増やすためだったから。

〜早稲田がリードしたわりに、掲載写真が少ないというのはそういうことなんですね。

K: 早稲田ばっかりにしちゃうと、他がやめちゃうでしょ。

Т: これを選ぶときは、僕の好き嫌いではなくて、富士フイルムの吉田祥次郎さんや石井彰さんも含めて、数人でやってましたよ。全国から選びましょうというのは言ったかもしれないけど、自分の主観だけで選ぶということはなかった。

 

 [●石井 彰/ 「土門拳の弟子で写真家の心があった富士写真フイルム宣伝課長・石井彰さんの好意で「水俣病ー工場廃液と沿岸漁民」(1962年9月東京銀座の富士フイルムフォトサロン)をやれた。化学業界団体から個展中止の圧力を受けたが、石井さんが身体を張ってくれたおかげで中止しないで済んだ」(桑原史成・談)]

〜会報を読むと「学生写真とは」とか「アカデミズムに目を向けろ」とよく書かれていますが、そういう意気込みはかなりありましたか?

Т: そんなに無かったんですけどね。僕は梶さんと違って、大学入るときに商学部に入っちゃったんだけど、その前に文学部の芸術学科を受けたのだが、戦争から帰ってきた兵隊たちも受けていたから競争率が20倍以上で大変だったんだよ。

芸術学科の面接の時、周りを見るとみんな年長者で、それが難しい本を読んでるから、何を読んでるんだろうと見ると、僕が一度も手にしたことないような本なんだよ。レベルの高い芸術論とか。新制高校出て田舎から出てきた僕としてはショックだった。慶応にも受かったけどね、写真部活動の盛んな早稲田に行くかと。あの時代、芸術に関心をもっている層が厚かったのは事実でしょうね。

〜その中で「インテリジェンス」とか「社会主義リアリズム」という言葉が流行だった?

K: そうですね。植田正治さんが東京に出てこなかった最大の理由はリアリズムだから。自分で言ってたもん、「東京に出たらつぶされるから」って。だから米子や境港にいて、月にいっぺん情報収集のために東京に出て来てた。

岡山の緑川洋一さんと近いから2人で出て来てさ。結局、秋山庄太郎さんとか林 忠彦さんが二科展の写真部作ったときに、知り合いだから写真出せって言われて。植田さんは創立会員じゃなかったけど、1回目か2回目の二科賞を受賞して会員になった。

〜当時は激動の時代でキャンパスが騒々しかったと思いますが?

Т: 当時は学生運動が盛んだったからね、僕らも座り込みやデモやったし。

K: 学生運動の始めですよね。今でも覚えてるんだけど、教育学部の前で座り込みしてて、学部長出せなんてやってて、そこに新聞部がきて写真撮ろうとしてたんだけど、当時は大型のフラッシュがなくて、知ってる? マグネシウムのボンたきっていうの。夜だから、シャッターを開けておいてそれをやらないと写らなかった。

それで、マグネシウムの入った瓶のふたを閉めないでやったら、火の粉がその瓶に入ってドンッて爆発して、デモどころじゃなくなっちゃった(笑)。助けろって。大変だったよね。風が吹くと飛んじゃって。あれは盛り方で閃光時間が変わるんですよ。スローシャッターにするときは平らに盛るんですよ。そうすると長く光るから。逆に閃光時間を短くしようとすると、高く盛るんですよ。そういう時代がありましたね。しかもライターがなかなかつかないんだよね。それで(顔を近づけたら)火がついて、眉毛もまつげも燃えてなくなって(笑)。

その後、フラッシュができたんだけど、それが割れるのね。宴会の写真なんかで割れると、料理が全部ダメになっちゃって。クリスマスのパーティーの撮影でフラッシュバルブたいたら上に飾ってたモールに火がついちゃって、「キャバレーで火事だ!」っていって写真撮りに行ったら、友達が消してたっていう(笑)、のどかな時代でしたよ。

<写真で食べていけた人はまだまだごく一握りだった> 

〜この辺りで、お二人の卒業後のお話を伺いたいんですが。

Т: あの頃はなかなかプロの就職口が無くて、朝日新聞社の出版写真部くらいしかなかったから、狙っていたら「今年は採らないから1年待て」と言われたんだよ。それで富士フイルムはどういう仕事するかわからなかったけど、入れてくれるっていうから朝日は諦めた。

当時千葉大の学生だった秋元啓一くんが1年待って、朝日に入ったのが羨ましかったね。 朝日に早稲田からは最初に行ったのは稲村不二雄くん(1956年卒・写真家)で、新潮の写真部に1年いて翌年朝日に入った。

K: 戦後の早稲田の写真部では、都筑さんがいて僕、その次が稲村くんでしょうね。都筑さんはいいですよ。大会社だから。僕はフリーでスタートした。フリーっていえば聞こえはいいけど、全然仕事がないわけでしょ。結局僕は写真雑誌がベースだったから、その技術記事書いたり口絵撮ったり、そういう仕事が多くて、それからだんだん週刊誌が出てきて、グラフやったりしましたけどね。

とにかく最初はね、カメラマンだ写真家だっていっても食うや食わずで、結婚式のとき島崎恒樹くん(1955年卒)が司会してくれたんだけど「やっと結婚できるだけお金が入るようになったんだね」って言ったぐらいですよ。本当に貧乏だった。

〜どこかに就職しろと言われたりしなかったんですか?

K: 親は言わなかったけど、親戚から「写真なんてやめろ」ってずっと言われてましたよ。大学のときから。だって一般的にはカタギのやる商売じゃないっていうようなもんですからね。

Т: 確かに卒業するとき周りで写真で就職しようという人はあまりいなかったな。航空写真の撮影会社に入った秋山誠二くん(1953年卒)くらいかな。

K: だって仕事場がないんだもん。だから朝日の出版なんて夢のまた夢でしたよ。

Т: あそこに入るのが唯一だったね。

K: それからしばらくして何年か後に週刊誌時代がきて、大手出版社が全部週刊誌を出して。ちょうどそれが「稲門写真クラブ」の中堅どころの時代ですよ。あの人たちは最初からプロで食えたんです。

Т: 新潮、文春、中央公論なんかは写真部からどんどん入ったよね。

K: 今井隆一くん(1963年卒)は主婦と生活社に入ったり。

Т: 文春が非常に多いよね。藤森秀郎くん(1959年卒)、井上隆夫くん(1962年卒)、須田善一くん(1957年卒)、飯窪敏彦くん(1965年卒)とか。新潮社にも小島啓佑くん(1953年卒)、稲村不二雄くん(1956年卒)、道正太郎くん(1957年卒)、野中昭夫くん(1957年卒)、鈴木文武くん(1959年卒)。中央公論社には山澤賢一郎くん(1959年卒)。

僕は富士でプロ部になってからは、文春、新潮、中公の3社は電話で「今度こういうフィルムできたからテストしてみてよ」って言えば、みんな協力してくれて、非常に同窓というのはありがたいもんだと思った。

K: 写真家以外も多士済々だったね。実業家では堤 義明さん(1957年卒)、出井伸之さん(1959年卒)などもいる。

Т: 当時は時代が良くて、僕なんかラッキーな面もあった。富士だって写真業界だけど、そこで写真を撮る仕事が最初からあったわけじゃないし、今思えば宣伝部も懐が深かったね。予算がないからこれやめろとか、言われたことなかった。

社内の先輩方も自分は海外に行かないで20代の僕を行かせてくれたよ、3ヶ月も。ヨーロッパからアフリカまで。映画で今度新しいフィルムを作ったから、それで16ミリ映画を撮るように言われて、マーケティングやアドバタイジングリサーチをやって、併せて外国向けに使えるような宣伝用の写真を撮ってこいなんてこと言って出してくれた。

K: それは会社だからできたんですよ。当時写真家には大体ビザおりなかったもん。お金持ってないから。1ドル360円の時代で。

木村伊兵衛さんがパリへ行ったのは朝日新聞の社員ってことで行ってるんですよ。だから『アサヒカメラ』編集部に行くと木村さんの机があったの。準社員みたいな感じで仕事ができたんですよ。[注:身分的には日本光学の顧問として貿易促進目的で派遣された。(『木村伊兵衛外遊写真集』「撮影日記」、朝日新聞社)]

[●木村伊兵衛は1954年にはじめてパリを訪れた。ニコンSとライカM3にコダックと富士のカラー・フィルム(感度ASA10)だったという。「富士のパステルカラーのような色彩がどうしても自然の感じがしてなりません。ヨーロッパに来てみて、今までコダックでとったカラーとはちょっと違ったしぶさを感じています」。[(『木村伊兵衛のパリ』「木村伊兵衛ヨーロッパ撮影日記抄」、朝日新聞社)]

Т: その当時は写真家が海外に出かけることなんてできなかったからか、僕がヨーロッパ行ったとき品川プリンスホテルで木村さんや土門さん、写真家が50人以上も出てきて壮行会を開いてくれた。本当にやりたいことやらしてくれたよね。

入社して最初の1年半は宣伝部に机はあったけど、研究所なんかと連絡を取り合う営業技術という部署にほとんど入り浸って、朝出社して何かテーマをもらうと暗室に入って、世界中の材料をフィルムから印画紙まですべてテストしたり。粒子がどうだっていうような学術的な研究を、優秀な成績で入社した技術者に毎日教えてもらっていたから、写真学校に行くよりはるかに知識を得る機会に恵まれていた。非常にラッキーだったし、自信を持ったね。

一日中暗室にいるから、外へ出るとすっかり夜でね。連日ハードだったけど、写真が好きだったから夢中でやっていた。

K: JPS(日本写真家協会)にはいつ入ったの?

[●日本写真家協会。1950年、渡部義雄らが発起人となって設立、初代会長を木村伊兵衛が務めた]

Т: 僕は80番だからね、初期の頃よ。

〜VIVOを始めとする写真家との交流についてお聞かせください。

Т: 土門さんのようにドキュメントを中心としたリアリズムが注目された時代に、奈良原一高川田喜久治細江英公丹野 章佐藤 明東松照明の6人でVIVOを創ったわけなんだけど、佐藤くんと東松くんは早稲田の写真部の例会にいつも顔を出して勉強しに来てた。それ以来のつきあいだから、非常に縁が深いわけです。

奈良原くんの最初の写真展にも参画しましたよ。批評家協会幹部の渡辺好章さんと彼が四つ切りプリントを沢山抱えてやってきて「展覧会をどうしてもやりたいから協力してくれないか」と言うんで、写真弘社を紹介して、そこで作品を大きくプリントして、銀座の松島ギャラリーを借りて展覧会をやった。佐藤くんは早稲田の例会に同僚の昆田 亨くん(1955卒)が連れてきてね。一番心を通わせていた写真家は彼でしたよね。

[●川田喜久治/1933年―。1952年、立教高校卒業時の作品が『カメラ』の月例写真(アルス社。編集長は桑原甲子雄。選者は土門拳・木村伊兵衛)の特選となる。立教大学では写真部に在籍。1955年に卒業し、新潮社に入社。1959年、退社。同年、「VIVO」に加わる。『地図』(美術出版社、1965)、『聖なる世界』(写真評論社、1971)、『世界劇場』(自費出版、1998)など]

[●細江英公/1933年―。 東京都立墨田川高校在学中の1951年、「富士フォトコンテスト」学生の部で最高賞を受ける。東京写真短期大学在学中の1952年、『写真サロン』11月号の月例写真で特選となる。1954年、同大学を卒業、フリーとなる。「VIVO」同人。『おとこと女』(カメラアート社、1961)、『薔薇刑』(集英社、1963)、『鎌鼬』(1970)、『死の灰』(窓社、2007)など]

[●丹野章/1925年―。日本大学芸術学部写真学科卒。「VIVO」同人。写真の著作権保護期間を公表後50年に延長する問題に、渡辺義雄とともに関わり、1971年の日本写真著作権協会(JPCA)の創設に貢献した。日本写真家協会常務理事、日本リアリズム写真集団理事長など歴任]

 

K: マグナムを真似して作ったの?

Т: 影響はあっただろうけど、真似したわけじゃないね。そういえば、どういう名前にしようかと言って、東松くんは「お米(ヨネ)」が良いと言ったが、佐藤くんが丸善で本を買ってきて、エスペラント語のVIVO(生命)がいいと。世界中に残るような名前にしようということで決めた。

<今は誰でも写真を撮れる時代だからこそ撮るものに主張をこめろ>

〜それでは最後に、現役部員たちへのメッセージをお願いします。

K: 時代が違うからねえ(笑)、現役が写真展を熱心にやってるけど、なんて言うか、フニャフニャなんだなあ。なんでこれ撮ったの? というような意味のわからない写真ばかりで、それで満足しちゃってるのはどうしてなの? と思うんですけどね。今は何でもわかる時代なのに、主張がないんだよね。なんとなく撮ってるというか。それが一番気になりますね。先日、六大学展を見ても、どの大学も同じだし。

Т: 以前は写真って技術が必要だったのが、今は誰でも写真が撮れるようになって、写真に参画する人口が増えた。撮られる人が撮るようにもなったし。それは個人にとっては大きな喜びかもしれないし大事なことかもしれないけど、やっぱり自分が本物を見聞きし深く掘り下げ、興味をもって参画してどこかに発表して、褒められるという水準の環境で生きていくという、そこに意義を見つけていくというのは大事だと思います。

ただ社会が変革して、若い頃から利便性、機能性、経済性が支配するような社会環境の中で育った人たちの感覚は、僕たちがやってきたような「作品を作る」という感覚とは違うような気がする。

K: そういう写真はだんだんなくなるでしょうね。プリントもあまりしなくなって。コンテストでもよく言われるけれど、そのうちこういうコンテストもなくなるだろうと。撮る人がいなくなる。最近はカメラじゃなくて携帯端末で写真撮る人が多くなってきたでしょう? iPadで撮って、そこで見ている。邪魔なんですよ(笑)。

ビル・ゲイツは世界を変えたと言われるけど、破壊してる部分もあると思いますね。そんなもんだとみんなが思い始めたら、本当に今までの写真文化はなくなるだろうし、そういう風に時代が変わって、写真部そのものもなくなるのかな。非日常だった写真が日常になって、趣味として成立しなくなっちゃう。底辺は広がったし、写真撮る人数は多くなったけど、意味のない写真が増えてるんですよ。

― 了 ―

★まとめ

・秋月美和:フリーライター・編集者「稲門写真クラブ」(1993年卒)
・平嶋彰彦:写真家・編集者「稲門写真クラブ」幹事(1969年卒)
・白谷達也:写真家「稲門写真クラブ」代表幹事(1970年卒)

★対談写真撮影

・増田 智:写真家「稲門写真クラブ」幹事(1991年卒)

★ページ制作

・金城正道:写真家・Webプロデューサー「稲門写真クラブ」幹事(1990年卒)

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★協力

・福島義雄:元朝日新聞社出版局勤務(1976年早稲田大学卒
・山崎幸雄:編集者 元朝日新聞社出版局勤務(1970年早稲田大学卒)