OB放談 あの日、あの時、そこにカメラがあった  白谷達也(昭和45年卒)×平嶋彰彦(昭和44年卒)

はじめに
昨年の秋、稲門写真クラブの代表幹事を白谷達也さんから引き継ぎました。
副代表の塩澤秀樹と私の間で、最初に話題に上がったのが、稲門写真クラブの先輩たちの活躍した軌跡を記録に残したらどうかということでした。それを後世に残すチャンスは、今しかないかもしれないと感じたのです。 塩澤も私もカメラマンで、編集の経験はありませんが、ともかくやってみようということです。
そこで今回は、これまで稲門写真クラブ代表をつとめられた白谷達也さんと、同期の平嶋彰彦さんにお願いして、学生時代から新聞社時代の話をしていただきました。お2人とも1965年の入学ですが、卒業後はそれぞれ朝日新聞社と毎日新聞社の出版局で写真に携わってきました。 同席をお願いした福田和久さんは、お2人の学生時代の1年後輩にあたり、写真部の副代表をつとめていました。今回は会報に冒頭部分をダイジェストで掲載しますが、今後はOB会ホームページで掲載していこうと考えています。
(代表幹事・増田 智)

平嶋彰彦 (ひらしまあきひこ)

1946年、 千葉県館山市生まれ。 1969年、政治経済学部卒。同年、 毎日新聞社入社、西部本社写真部配属。 1974年、 出版局写真部転属。 1999年、 ビジュアル編集室転属。 写真展に『たたずむ町』 (世田谷美術館、1988)、『東京ラビリンス』 (ときの忘れもの、 2020)。 共著に 『昭和二十年東京地図』 (文・西井一夫、 筑摩書房、1986)、 『町の履歴書 神田を歩く』 (文・森まゆみ、 毎日新聞社、2003) など。 編集担当の著作 (いずれも毎日新聞社) に 『宮本常一写真日記集成』、『私的昭和史 桑原甲子男写真集』 など。 退職後、大学写真部 OBたちと街歩きの会を始める。 2023年現在の会員は9人、 2023年1月現在で110回を数える。

白谷達也 (しらたにたつや)

1945年、福岡県大牟田市生まれ。 1970年、 早稲田大学法学部卒。同年 朝日新聞社入社、出版写真部配属。 「アサヒグラフ」、 「朝日ジャーナル」、 「週刊朝日」、 「朝日新聞土曜版be」などを舞台に活躍。 2005年、朝日新聞社を定年退職。 写真展に『絵日記』 (1975年 ギャラリー・キューブリック)、 『唐川びとへ』 (2009年、富士フイルムフォトサロン)。共著に『セラミックロード 海を渡った古伊万里』 (文・上野武、朝日新聞社、1986)、 『国会議事堂』(文・松山巖、朝日新聞社、1990)、 『唐川びとへ一精霊たちの庭 出雲 ・唐川』 (文・古澤陽子、ラトルズ、2009) など。 2011年より2022年まで、稲門写真クラブ代表幹事をつとめる。

水俣病の猫

増田 :まずはお2人の学生時代のお話からお願いします。
平嶋: 白谷君のことで、ぼくがよく覚えているのは、靖国神社をテーマにした組み写真なんだな。確か大学一年のとき、写真部の例会だった。
白谷: 靖国神社は高校生の時「中央公論」の記事を読んで、自分のテーマだと思ったのがそもそものきっかけで、上京したら先ず靖国に行こうと決めていた。しばらく靖国は撮ってたね。撮影半ばのものを例会に出したんだろう。後に「アサヒグラフ」で8ページの誌面になった。
ぼくが1年生の最初の例会で出したのは伝馬船の写真だった。三池港に鋼鉄製の閘門があって、三池炭鉱からその閘門まで、伝馬船を老人がキイコキイコ漕いでいる。石炭から石油に変わろうとするあの時代に、櫓を漕いで動かしているんだ。そんな写真を例会に出したんだ。
あれは6×6 のリコーフレックスで撮った。そうしたら、それがやたら先輩方に好評だったんだ。あいつは写真がうまいとか色々言われて、自分でも驚いたんだ。こんなのがいいのかなとかね。

●三池港/大牟田(現福岡県大牟田市)は、1863(明治六)年、三池炭鉱が官営になり発展を始め、のち1889(明治22)年、三井財閥に払い下げられ民営化されると、大鉱業地帯に成長した。 三池港は干満の差が大きく、外洋貨物船が横づけできなかったため、1908(明治41)年、閘門式人工港を完成、石炭積出港に加え工業港としても発展した。( 大牟田とは ーコトバンク (kotobank.jp))

平嶋 :靖国は組み写真で、いかにも手馴れた感じだった。
写真は高校の時から撮っていたものと思った。
白谷 :写真を覚え始めたのは小学校の時。 家に写真機があった。登山家はそこに山が有るから登るそうだが、ぼくの場合は家に写真機があった、というなんちゅうこともないきっかけで撮り始めた。
平嶋:はじめたら面白いからのめり込んだというわけか。
お父さんは何をしてたの?
白谷 :父は、化学会社の技術者だった。写真を撮っていたといっても、中学のころまでは、なんてことない、家族写真とか、そんな類の写真ばっかりだった。で、高校に入ってから、けっこう本格的に撮るようになったのかな。
平嶋: 高校のころ住んでいたのは大牟田だったよね。
白谷 :大牟田に「7色の川」ってのがあった。1日に流れる水が7回変わるって川だ。大牟田には三井の三池炭鉱があった。三井の城下町だから化学会社がわあっとあるんだな。 その化学工場がいろんな排液をそのまんま流してた。 それで、もう臭気はすごいし、こんなのありかよ、と思ってさ、撮り始めたの。ところが、そのころ、おれ、養子に出されたんだね。 福岡にね。だから大牟田ずっといるわけいかなくなった。ちょっと間を開けるとかしながら、ちょこちょこ、ちょこちょこ、大牟田に帰って来て撮っていた。
それでね。写真をなぜ始めたかというのは、さっきもいったように、そこにカメラがあったからみたいな感じだけど、思い返してみると、水俣の猫の写真なんだ。 写真が載ったのは地元紙の「西日本新聞」だった。 水俣病のことはそれで知った。 中学のときかなんかだ。ぼくは、その写真を見て、まさかこんなことが、と思った。凄い事件が起きているという感覚。明確な意識があったかどうかはともかく、それがきっかけなんだ。きっとね。多分。それで大学に入ると写真部を選ぶことになったのだと思う。
平嶋:はじめて聞いた。それが白谷達也の写真の原点になるんだ。そうだったのか。

学費値上げの反対運動

平嶋: ぼくは、写真を真面目にやろうとして、写真部に入ったわけじゃないんだね。キャンパスをうろうろしていたら、1年先輩の誰だったか、女性2人に勧誘されたんだ。ところが、入ってみたら、男ばかりなんだな。しかも、ぼくたちの学年は女の子が1人もいなかった。がっかりするというか、詐欺にあったような感じだった。
ぼくはそのころ、報道写真には興味がなかった。気に入っていたのは緑川洋一の『瀬戸内海』のような風景写真なんだ。ぼくの実家の庭から太平洋が見えるんだな。南向きの高台だから、昼も夜も海はキラキラしている。だけど、緑川洋一の写真はイメージが全然ちがうんだな。それが、不思議で仕方なかった。
1965年の暮れから年明けに、学費値上げの反対運動が持ち上がった。2月の終わりに機動隊が導入され、不退去罪で203人が検挙された。このときにぼくもパクられた。ぼくは政経学部の語学クラスの連中と活動していて、写真部の人たちが学費値上げ問題にどう取り組んでいたかは知らなかった。
紛争が終息したのは4月か5月か忘れたけど、しばらくして写真部の人たちが撮った写真を見るようになった。ところが、その写真と、ぼくがこう、なんというか、自分の目で見て、記憶に焼きついている反対運動のイメージとはまるで違っている、いくらなんでもこんなの駄目じゃないか、という反発があった。それが転機になって、風景写真だけでなく、報道写真にもというか、目の前の出来事を表現する手段としての写真に興味を持つようになった。
写真部の部室は、そのころ商学部の地下にあって、「アサヒカメラ」と「カメラ毎日」のバックナンバーが何年分も揃っていた。あのころ、日本の写真界の巨匠というと、土門拳・木村伊兵衛・濱谷浩になるんだけど、そうじゃなくて細江英公・東松照明・奈良原一高・川田喜久治といったVIVOの写真家がやたら気になるようになった。
カメラ雑誌のほかにも写真集がけっこう置いてあった。そのなかで、いいなと思ったのは、ウィリアム・クラインの『ローマ』(1958)と細江英公の『薔薇刑』(1963)だった。クラインは最新作の『東京』(1964)もあったけど、『ニューヨーク』(1956)は置いてなかった。見たいと思ったけど、高くて手が出なかった。それで、銀座に行ったついでに、イエナの2階で何度も立ち読みした。

三池炭鉱の炭塵爆発事故

平嶋 :ところで、白谷が写真で食べていこうと思ったのは、いつごろからなの?大学1年のころから?
白谷:うん。その気はあるにはあったと思う。
さっき平嶋がいっていたけど、自分が見たり聞いたりした体験と、新聞記事とでは乖離がある。これは違うんじゃないか、よくこんなこと書けるな、というような感じかな。そんなことで、いつごろからだったか、記録するってことでいえば、文字で書くよりも、写真に撮る方が嘘は少ないし、その方が自分には向いているんじゃないか、写真でやれるならやってみよう、と考えるようになった。
そうだな。写真で食べていくきっかけになったのは、なんといっても、新聞で見たあの水俣の猫なんだな、おそらくは。それと、そうだ。やっぱり、土門さんが定価100円で出した、あのザラ紙の写真集の影響も大きいかも知れないな。
平嶋: それって、土門拳の『筑豊のこどもたち』のこと?
白谷: そう、『筑豊のこどもたち』。その続編が『るみえちゃんはお父さんが死んだ』なんだけど、あの2冊の写真集は、大学に入る前、高校のときだな、九州で見ていた。

●『筑豊のこどもたち』(土門拳、パトリシア書店、1960)は、閉山の相次ぐ筑豊の炭鉱労働者とその子どもたちを取材した写真集。ザラ紙の印刷、定価100円で発売された。『るみえちゃんはお父さんが死んだ』(研光社、1961)はその続編。(土門拳とその作品筑豊のこどもたち 山形県酒田市土門拳記念館(domonken-kinenkan.jp))

 

白谷: 大牟田っていうのは三井三池炭鉱があったところだ。
炭鉱はあちこちに散らばっていて、いまは近代化遺産ということで観光地にもなっている。その三井三池の三川坑で、炭塵爆発事故が起きた。戦後最大の事故で、何百人もの人が死んだ。1963年11月のことで、ぼくは高校3年だった。その日は福岡から大牟田に帰る予定になっていて、電車を降りて大牟田の駅頭に立ったんだが、いつもとまったく感じが違う。駅前には人っ子1人いないし、車も1台も走っていない。なんなんだこれは、と不思議に思いながら、歩いて家まで帰ったんだ。
家に帰って聞くと、三川坑で大爆発があったというんだな。テレビのニュースを見ると、収容された死者や負傷者が三井鉱山の付設病院に次々と運ばれ、死者は筵(むしろ)の上に寝かせられている。 大変なことが起きているんだな。それで、おれはカメラをひっ掴んで、自転車出して現場へ行こうとした。 そしたら、親父に止められた。それは絶対ダメだ。危ないっていうんだ…。
三池の爆発事故は、石炭から石油へ変わるエネルギー革命の転換点だった。あれから、全国で次々に炭鉱が閉山して、石炭産業はみるみるうちに衰退していったんだ。

●三井三池炭鉱爆発事故/1963年11月9日に福岡県大牟田市の三池炭鉱(三井鉱山三池鉱業所) 三川坑で発生し炭塵爆発事故。坑内にいた約1400人のうち、爆発の衝撃や一酸化炭素中毒で458人が死亡。 第2次大戦後最悪の炭鉱事故となった。(三井三池炭鉱爆発事故とは – コトバンク(kotobank.jp))

1968年夏の就職活動

平嶋 :ぼくは写真のプロになる気は大学3年のころまでなかった。4年になると、さすがに卒業後のことが心配になった。いまのカミさんとつきあい始めていたから、無職というわけにはいかなかったんだな。ゼミにも入っていないし、授業にも出ていないから。まともな会社はまるでお呼びじゃなかった。 じたばたしてもあとの祭りで、就職先は雑誌社か新聞社のカメラマンぐらいしか思いつかなかった。就職先はどこでもよかった。毎日新聞にしたのは、大学の推薦状が要らなかったからだと思う。願書は同期の西上原裕久君がぼくの分まで取ってくれた。それだけじゃなく、 入社試験の傾向と対策まで教えてくれるんだな。彼は毎日の2次試験の前に、すでに日経(日本経済新聞社)と平凡出版(現マガジンハウス)から内定の通知をもらっていた。で、日経に入ることを決めて、毎日の2次試験は受けなかった。
2次試験は写真撮影と面接だった。写真撮影は東京駅を5カットでまとめるのが課題だった。最初に丸の内側の古めかしい駅舎を撮って、駅の中に入ろうとすると、自動切符売場にリュックサックを背負った外国人カップルがいた。運がいいっていうか、カモがネギを背負っているって感じなんだな。近寄っていって、35ミリのタテ位置で、ふり向きざまに1枚、笑っているので、頭を下げて、もう1枚撮った。
面接では石井さんといったかな、東京本社の写真部長から、外国人カップルと新幹線ホームでのスナップをほめられた。面接は5分か6分で終わり、報道カメラマンの心構えを聞かされたから、それでなんとなく大丈夫かなと思った。
あのころを思い出すと、毎日の入社試験は7月で、9月には早慶写真展があった。早慶写真展は3年生の宇野敏雄君が中心になって共同制作をしていた。ぼくは4年生だったけれど、どういうわけだったか、その共同制作に参加していた。というよりも、ぼくが大学時代に1番たくさん写真を撮ったというのは、毎日の入社試験があったあの時期なんだな。
3メートルから手前のスナップは怖い。覚悟がいるんだな。迷いがあると、見透かされる。相手を怒らせたり、文句をいわれる。あの共同制作では、あちこちうろついてスナップをして歩いた。そんなつもりじゃなかったけど、後になって考えると、それが入社試験のトレーニングになった気がする。

●早慶写真展/早稲田側のタイトルは『異邦』。1968年9月24-29日、銀座ニコンサロン(松島眼鏡店2階)で開催した。


左から増田 智、平嶋 彰彦、白谷 達也、福田 和久、塩澤 秀樹

撮影 塩澤秀樹