【訃報】昭和34年卒の鈴木文武さんが亡くなりました

 ◎昭和34年卒の鈴木文武さんが3月18日(水)午前5時すぎに肺炎のため亡くなりました。

 学院時代から写真に親しみ、政経学部に進学後すぐに写真部に入部。卒業後は新潮社写真部に就職。程なくしてグラビア編集部に異動。取材に走り回る慌ただしい仕事の中で「週刊新潮」・谷内六郎さんの表紙絵担当を何と26年間に渡り全うされました。谷内さんとの二人三脚ぶりは『思い出の記ー週刊新潮表紙絵を中心にー』鈴木文武著、私家版、2008年刊に詳しくありますが、鈴木さんのお人柄が偲ばれます。   

 平成4年に古巣写真部に戻られ、定年後は稲門写真クラブの代表幹事を長く努められ、クラブの運営に多大な貢献をされました。

  昨年末転倒されて入院。入院中にインフルエンザに罹り肺炎を併発、一時持ち直されましたが誤嚥性肺炎のため亡くなられたとのことです。

 ・通夜 ;3月22日(日)午後6時から

 ・告別式:3月23日(月)午前10時30分から12時まで

 ・式場 :いずれも「セレモニー大宮ホール」(さいたま市大宮区宮町2−31)

      電話=048−631−1100

 

  ※稲門写真クラブとしてお花をお供えさせていただきます。

◎WPS「椿季展」を見て    昭和40年卒・飯窪敏彦

 

◎「WPSはみな元気です」

 良いシーンを撮ることによって、自分がひとつ豊かになる。そんな写真生活をおくりたいと常に思っている。

自分にない感性に触れて、驚くのも刺激的だから、機会を見つけてはギャラリー歩きをしている。

「椿季展」は早稲田大学写真部(WPS)112期卒業生と新規入部学生の合同写真展である。

私がいつ卒業したかというと、1965年、う?ん、50年前である。

 現役生との接触の機会がなく、どんな写真が見られるのだろう、楽しみでもあったが、難解な作品だったらどうしよう。心配だった。

 20人が出品していた。いや、心配は杞憂。皆、写真を楽しんでいた。一様の作風でなく、各自それぞれの方法で見せていた。

☆K.Yさん「おはよう」(左)、「やすみのひ」

 K.Yさんの「おはよう」「やすみのひ」。

私ならこの場でカメラを向けないであろう写真で、ショックなことであった。しかも、立派な作品に仕上がっているのだった。

 

☆S.Cさん「君を想えば」

 S.Cさんの「君を想えば」。

花を前にした少女の表情をとらえた一枚だが、少女を撮った人からも優しさが感じられる写真でホッとするものがあった。

☆U.Sさん「monument」

  U.Sさんの「monument」。

祖父の古いアルバムから何枚かはがして、自分なりに会場の壁面で構成し、自分の撮った写真はほんのわずかに組み入れているだけ。

家族の歴史が伝わってきた。U家の茶の間が時とともに変わるが、机上に果物の鉢が必ずあって、すてきな人々と家風が見えてくるのだった。

☆F.Kさん「クローゼット」

 F.Kさん。バリエーション豊かな、たくさんの作品を見せてくれていた。

壁面展示2作と机にアルバムを2冊。どれもすぐれた技術で裏打ちされた作品だった。写真がおもしろくてしょうがないという気が感じられた。

 アルバムの1冊には正方形の写真が続いているので、「ハッセルで撮ったの?」と訊いたら、「ケータイです」だって。「800万画素あるんでA4ほどなら充分です」って。

外国の人物写真もあったが、街の人も、ケータイで撮られる分には心を許して、素顔で接してくれるであろう。

新しい写真術だな、とすっかり感心してしまった。

 

☆F.Kさん「21」

 4人の紹介だけでも、WPSの健在ぶりがわかるであろう。

 10日前に、1967年卒の勝山泰佑氏の写真展と写真集「Photo 50年 できごと ひとびと」を見せてもらった。

白黒フィルムによる美しいプリントであった。美しい仕上げは撮影態度のあらわれでもある。しっかり見据えたカメラアイは見るものに強く訴えかけていた。

それが50年である。そのボリュームに圧倒された。

 ところで、氏のプロフィール欄にカメラをタテに構えたポートレートがあり、シャッターをおす右手が上にあった。右手が下にくる人もいる。それぞれ撮影者の性格からくる構え方だと思うが、どうであろう?

上段に構える人は強い気迫で撮るタイプの人かもしれない。実は私は下なのであるが・・・・。

そうなるとケータイ、スマホでの構え方はどんな意味合いを持ってくるのかな?何やらおもしろくなってきそうである。

そして、WPSは老若男女、元気です。

(昭和40年卒、飯窪敏彦)