昭和39年卒・吉田 勇さんからの贈り物

★昭和39年卒の吉田 勇さんが大切に保管されていた『中央公論』と『文藝春秋』のグラビヤページをスキャンしてDVDに焼きました。一見の価値があります。閲覧ご希望の方はお申し付け下さい。

◎未だ見ぬ早大写真部員の方々へ

ここに、或るコレクションがあります。昭和31年(1956)から昭和35年(1958)にかけての『文藝春秋』と『中央公論』のグラビアページの切り抜き集です。私が高校一年生の頃、これらに魅せられ収集したもので、今76歳になる生涯4回の引っ越しの荷物整理の折々に、捨てるに捨てられず古いトランクの中で眠っていた切り抜きの束です。今年、最終となる家の処分で、久しぶりに取り出して眺めた時、そうだ当時の写真部先輩に見てもらおうと思ったことから、稲門写真倶楽部幹事の方々につながってお目に留まり、これを何かの形で残すことを考えて頂くことになりました。

もしこれらが若き早大写真部員の目に触れる形になるものなら、「報道写真」「社会派カメラマン」「写真ジャーナリズム」などという言葉があった60年前の時代に、毎月総合雑誌の巻頭に掲載されていた最先端の作品たちを、今の皆さんに是非見て頂きたいと思います。この60年余りの年月でカメラも機材も様変わりし、インターネットとスマホやAIの時代の現役学生の皆さんには古い玉手箱を開けるようなことですが、もしかして、これらの中から何かを感じ、写真のチカラの一端を読み取ってもらえたら幸いです。高校生の私は毎月胸躍る思いでこれらのグラビア写真に見入り、啓発され、早稲田に受かったら写真部に入って、どの号かにあった唐木先輩のようにいつか自分の写真を発表できるチャンスもあるかも知れないと幼稚に考えていたものです。そして1年生の最初の例会から3年生での早慶写真展、六大学展、早稲田展、早稲田祭など全ての機会に参加して、精いっぱい写真部生活を楽しめたのもこれらの優れたグラビアのイメージが私の糧になっていたのだなと今も思います。後に続く写真部員の何方かの興味を引く材料になることを念じてこのコレクションの経緯をコメントいたしました。                                                     2018.10.02 昭和39年卒・吉田 勇

++

◎昭和三十年代の私的写真史                —–吉田 勇さんから寄贈された60年前の雑誌グラビア頁の切り抜きファイルについて—– 

稲門写真クラブ代表幹事の白谷達也君から連絡があり、見て欲しいものがあるとのこと。でかけてみると、白谷君が紙袋からとりだしたのは分厚い雑誌の切り抜きファイル。これをつくったのは早稲田大学写真部で先輩にあたる吉田勇さん。内容は昭和31(1956)年から昭和36年の『中央公論』と『文藝春秋』のグラビア頁。同席した副代表幹事の菊池武範さんによると、吉田さんは昭和39年卒とのことである。

両誌に寄稿しているのは、渡辺義雄、田村 茂、秋山庄太郎、渡部雄吉、濱谷浩、長野重一など戦後を代表するそうそうたる写真家たちである。ファイルを括っていくと、なんと『中央公論』の昭和32年5月号には、奈良原一高の「人間の土地」が掲載されている。

奈良原のデビュー作として有名なこの作品の展覧会は、その1年前の5月、銀座の松島ギャラリーで開催された。「人間の土地」が戦後の写真史で重要な位置をしめるのは、それまでの写真表現に飽きたらない若い世代の写真家たちがこの作品に共鳴し、新たな写真表現の地平をさぐる一歩として、1年後すなわち昭和32年5月に「10人の眼展」(小西六フォトギャラリー)が開催されたからである。さらにいえば昭和34年には、この展覧会を母胎として真家集団VIVO(参加者は石元泰博、川田喜久治、川原 舜、佐藤 明、丹野 章、東松照明、常盤とよ子、中村正也、奈良原一高、細江英公の10名)が結成されている。

あらためてファイルをみなおすと、掲載誌はいずれも『中央公論』になるが、奈良原は上記作品のほかに「王国(その1)壁のなか」(33.09)、東松照明は「執行吏合同役場」(33.02)・「課長さん」(同07)・「名古屋」(同08)・「まぼろし」(34.08)・「岩国」(35.04)、常盤とよ子は「ある女たちの生活」(32.06)、石元泰博は「機械」(32.10)、川田喜久治は「漁港」(34.09)が確認される。そして昭和36年6月号には、制作VIVO(細江英公・川田喜久治・奈良原一高・佐藤明・丹野章・東松照明)のクレジットで「and」が掲載されているが、この号の発売直後、VIVOはおよそ2年の活動に終止符をうち解散している。

この当時もっとも精力的に『中央公論』のグラビア頁で仕事をしていたのは、早稲田大学写真部とも浅からぬ関係があった濱谷浩である。「崩れゆく新潟海岸を見る」(31.02)・「アワラの田植を見る」(同05)・「雪国・秋田の人を見る」(同12)・「ああ、幸せな10日間」(32.12)・「有楽町」(33.01)・「見下げた東京」(同05)・「人口密度世界一」(同11)などなど。『雪国』とともに不朽の名作と評される『裏日本』の刊行は昭和32年だが、かの有名な胸まで浸かる田植えの写真は、上記の「アワラの田植を見る」ではトップ頁に使われている。

この切り抜きファイルは、最初はうっかりして、吉田勇さんが大学写真部時代につくったものとおもい込んでいた。しかし昭和39年卒というのであれば、奈良原一高の「人間の土地」が『中央公論』に掲載された昭和32年には、間違いなく大学に入学する以前で、おそらく高校1年生か中学生ではなかったかとみられる。

それからしばらくして、吉田勇さんとは一度お会いする機会があった。うかがってみると、『中央公論』と『文藝春秋』は、ジャーナリストになられた二人のお兄さん方(日本テレビと読売新聞社)が購読されていたもので、吉田さんがグラビア頁のファイルをはじめたのは高校1年のころだという。また話の端々から推測すると、VIVOの作家たちの表現の仕方や考え方に特別な関心を寄せていたわけでもないようである。たしかにその通りで、VIVOの作家たちに傾倒していたのであれば、このような五目釣り的な資料採集にはならなかったとおもわれる。

私は昭和44年の卒業で、VIVOの作家たちに少なからぬ影響を受けた世代にあたる。私が東松照明や川田喜久治を知ったのは、大学2年のときだから昭和42年になる。大学写真部の書棚にあった『アサヒカメラ』や『カメラ毎日』といった写真雑誌を通じてだった。不勉強といわれればそれまでだが、時代を先駆ける写真表現の実験場の一つが、『中央公論』『文藝春秋』といった総合雑誌であったことにちょっと驚いた。もっと驚いたのは、偶然かどうかわからないが、切り抜きファイルの期間が、みごとなまでにVIVOの発端から終焉までの歴史と一致していたことである。

少年時代の吉田勇さんは、目についたものをやみくもに切り抜いていたのではない。あるいは逆に、なにか模範となる見方があり、それにしたがって切り抜いていたのでもない。勝手な想像になるが、海のものとも山のものともいまだ評価の定まらない写真家たちの意欲的な表現に、多感な少年が訳もわからないままに刺激されたのである。ファイルは、将来に向けてゆれうごく精神の軌跡を率直につづった備忘録ともみられる。

先に濱谷浩について触れたが、濱谷が北陸や東北の風土をテーマにするきっかけになったのは、富山県高岡市在住の民俗研究者である市川信次との出会いだった。濱谷は市川を通じて、アチック・ミューゼアム(現在の日本常民文化研究所)を主宰する澁澤敬三を知り、しだいに澁澤が提唱する民俗学の方法論に感化をうけるようになった。

よく知られるように、澁澤敬三と股肱の関係にあったのが宮本常一である。その宮本をアチックに勧誘するにあたって、澁澤は次のように戒めている。

「君には学者になってもらいたくない。学者はたくさんいる。しかし本当の学問が育つためにはよい学問的な資料が必要だ。その資料――民俗学はその資料が乏しい。君にはその発掘者になってもらいたい」(『民俗学の旅』、宮本常一)

宮本は旅に半生を費やし、その見聞を膨大な文字資料に認めた。その一方で、写真が歴史資料として重要性であるとの観点から、昭和30年から亡くなるまでの20年間に、10万カットの写真を撮っている。

文字でも写真でも記録は歴史資料となりうる。すぐれた記録は、歴史資料のみならず表現作品としても、多くの人が読んだり見たりするに値する。60年前に吉田勇さんがつくられた雑誌グラビア頁の切り抜きファイルもその好例の一つであるといえる。これを吉田さんが捨てきれないでいるのは、それだけの愛着があるからにちがいない。吉田さんは早稲田大学を卒業したあと、写真の道を選ばず、実業の道を進まれた。しかし、かなえることのなかったもう一つの人生は、夢は夢として、いまもなお心の中で息づいているのである。

昭和44(1969)年卒業 平嶋彰彦

◎掲載作品リスト

『中央公論』

31.?「見る」生徒5人の学校/濱谷 浩

31.? 「見る」永平寺/濱谷 浩

31.? 「見る」金澤/濱谷 浩

31.? 「見る」大阪/濱谷 浩

31.? 「見る」奈良のお客さん/濱谷 浩

31.01 中国の表情/クレジット無し

31.01鉄鋼/菊池俊吉

31.? 「見る」飛騨高山/濱谷 浩

31.? 「見る」新潟海岸/濱谷 浩

31.? 「見る」焼津/濱谷 浩

31.? 「見る」アワラの田植え/濱谷 浩

31.06正宗白鳥先生/浜谷浩

31.12「見る」秋田の人/濱谷 浩

31.12自衛隊・砂川/渡部雄吉

32.01南の涯の人々/渡部雄吉

32,04民族の表情/渡辺義雄

32.05人間の土地/奈良原一高

32.06 ある女たちの生活/常盤貴子

32.06都会は深夜も動いている/渡部雄吉

32.07イタリア点描/渡辺義雄

32.07 東京特派員/三木 淳

32.08日本のチベット/菊池俊吉

32.10「ああ、しあわせな十日間」/浜谷浩

32.10機械/石元泰博

32.12生きている封建社会/藤川 清

33.01有楽町/浜谷浩

33.02執行吏合同役場/東松照明

33.03瀬戸内海の傷痕/緑川洋一

33.04民族の表情/田村 茂

33.05見下げた東京/浜谷浩

33.06社会党書記長/山田健二

33.07課長さん/東松照明

33.08名古屋/東松照明

33.09王国/奈良原一高

33.11食欲の秋

33.11人口密度世界一/濱谷浩

33.11働く場所は雲の上/マルク・リフー

33.12山手線/吉岡専造

34.02孤独な喜劇王/大竹省二

34.02フランキー堺/大竹省二

34.02人民公社の壁/田村 茂

34.03沈む大地/小林新一

34.05 滅ひ?ゆく東北の塩田/伊藤昭一.pdf

34.05?青い目の雲水/高原 猛

34.05?83歳の興行王/大竹省二

34.07三つの都/三木 淳

34.08まほ?ろし/東松照明

34.09漁港/川田喜久治

35.02二つの開拓地/渡部雄吉

35.04岩国/東松照明

35.05都会あるいは現代の女あるいは/東松照明

35.07その日暮らし/浜谷浩

35.07暑い国のタイ/濱谷浩

35.09三池/藤川 清

35.09八幡/渡部雄吉

35.10経営者セミナー/渡部雄吉

35.10春日野親方/高原 猛

35.11日本の地図/大竹省二、林忠彦、三木 淳

35.12自衛隊+砂川/渡部雄吉

36.06 and/ VIVO

 

・アイスパトロール/浜谷浩

・プロデューサー往来/大竹省二

・まったくやりきれない/濱谷浩

・沖縄の肌/岡本太郎

・東西の架け橋/秋山庄太郎

 

『文藝春秋』

31.01海の上のプラットホーム/長野 重一

31.11偉大なる田舎・トーキョー/田沼武能

31.11慎太郎旅日記/樋口進

31.11杉山寧画伯/三木淳

33.02PL教団/三木淳

33.02アメリカの遺した二つの大学/長野 重一

33.02郷土望景詩/島田謹介

33.03たった一人の「勝ち組」/杉山吉良

33.03バックミラーの人生/田沼武能

33.03文壇初登場/長野重一

33.09草軽鉄道/渡部雄吉

33.09沈没船引き上げ/伊藤則美

33.09硫黄島/三木淳

33.12村の嫁っ子/明治大学写真部

34.02取り的日記/唐木正雄(WPS)

34.06舞台俳優/秋山庄太郎

34.07さまよえる異邦人/杉山吉良

昭和41年卒・鈴木龍一郎さんが掲載されています。

本書は日本の写真家100人(上下巻・各50人)と、その代表作について記した読み物である。ときに社会的なリスクを負ってまで取り組む写真家の個人的動機。そして、彼らの仕事に反応し、それを評価した同時代的状況。その接点をひとつずつ積み重ねていくと、現代史の実感が改めて見えてくる。(帯から引用)

 

 

昭和46年卒・岩間 敏さんが新著を出版されました

はじめに

1941(昭和16)年12月8日、日本陸軍はマレー半島に上陸し、海軍は真珠湾を奇襲した。蘭印(蘭領東インド、現インドネシア)との石油輸入交渉「日蘭会商」の打切りから6ヵ月、米国の日本資産凍結、「石油禁輸」の実施から4ヵ月後の開戦であった。この時、中国との戦争はすでに4年5ヵ月続いており、西に中国、南に英国、オランダ、豪州、東に米国と「三面戦争」の開始であった。

開戦前の同年7月25日、日本の南部仏印(現ベトナム南部、カンボジア、ラオス)への進駐部隊が海南島を出港した。同日、米国は在米日本資産の凍結令を公布した。翌日以降、英国、フィリピン、蘭印がこれに続いた。8月1日、米国は日本に対する全ての石油輸出の許可制を発動し実質的な石油禁輸を行った。日本限定の世界最初の「石油危機」の発生でり、南部仏印進駐に対する米国の厳しい制裁であった。この米国の対応は日本にとって想定外であり、政府、陸海軍に大きな衝撃を与えた。それ以前から米国は日本の南進に対して強く警告を行っていたが、日本は米国の真意が理解できていなかった。

第一次大戦以降、戦争は当事国の軍隊だけでなく産業、人口、資源を総動員する総力戦になることが見込まれていた。石油がなければ軍艦も飛行機もただの鉄とアルミの塊に過ぎないが、日本はこの石油資源に恵まれておらず石油需要の9割強は海外から輸入していた。その輸入の6?7割は米国からであった。日本は米国から輸入した石油で国内産業を動かし、中国との戦争を戦っていたのである。政府はこの石油の米国依存に危惧をもち、日中戦争の開始後、米国の経済制裁、特に石油に関連した制裁が強まると米国に代わる石油供給源を求めた。それが蘭印であった。政府は蘭印の宗主国オランダがドイツに占領されると蘭印から石油を中心とする戦略物資の輸入を計画する。この輸入交渉は「日蘭会商」と呼ばれ1940年9月から翌年6月まで行われた。この日蘭会商はアジア・太平洋戦争の前哨戦でもあった。交渉はそれなりの成果をあげたが日本は満足しなかった。本書ではこの交渉の過程に焦点を当てた。そこには日本の南進の意図とこれに対するオランダを中心に英米の日本の南進阻止の戦略が浮き上がってくる。米国の石油禁輸を受けて、日本の陸海軍は急速に米国との戦争へと傾いていった。アジア・太平洋戦争は、具体的には米国の石油禁輸の後、日本が蘭印に石油の代替供給を求めた戦いであった。また、開戦時の真珠湾攻撃が成功するかどうかの最大の懸案は艦隊への石油補給であった。日本の艦隊は長距離渡洋用に設計されていなかった。攻撃の機動部隊は予備油槽を設置し、ドラム缶、石油缶を積載して出撃した。本書ではこの機動部隊の航海にも焦点を当てた。アジア・太平洋戦争は開戦前、緒戦、戦争中も石油が大きな課題であり、石油を求めた戦争であった。では、なぜ、最重要物資の石油の輸出国、米国と戦争をすることになったのであろうか。また、この事態の急変に対して日本はどのような予測と対処をしたのであろうか。そこには満州事変以来、10年間の日本の対外政策の集積があった。本書は石油に

焦点を当ててこの「アジア・太平洋戦争と石油」の関係を明らかにする。

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b357764.html

【訃報】昭和46年卒の金井靖雄さんが亡くなりました。

昭和46年卒の金井靖雄さんが、大晦日に肺炎のため亡くなっていたことが判りました。

僕の二代後の代表委員でしたが、写真部のことよりも学生運動の方に精力を注いでいたように仄聞します。文学部だった金井くんは、革マル派の襲撃を常時警戒していて、当時、商学部の地下にあった写真部部室に隣接して革マル派の拠点が有ったため、部室に近寄れなかったのかもしれません。

「いわた」で麻雀をして、深夜に馬場の方にキャンパスを抜ける時など「白谷さん、革マルがやばいから離れないでね」とすり寄って来られて緊張したものでした。

革マルにはやられませんでしたが、癌にやられてしまいました。前回の「写真の早慶戦」の時には、受付けを元気にやってくれていたのに、唐突と思える旅立ちでした(昭和45年卒・白谷達也)

【訃報】昭和32年卒の須田善一さんが亡くなりました。

昭和32年卒の須田善一さんは、脳梗塞でかねてから療養中でしたが、12月31日夜ご自宅で亡くなられました。享年83歳でした。

週刊誌創刊ラッシュの時代に、文藝春秋写真部の初代写真部員として暗室作りから携わり、「文藝春秋」「週刊文春」など文藝春秋社のすべての出版物のための写真撮影をはじめ、「ぜんちゃん、ぜんちゃん」と慕われて「キャップ」を定年まで務められました。

美代子夫人とは早稲田大学写真部の同期です。

2017年 「早稲田祭展合評会」報告 

 今回は、昭和63年卒の木内格志さん(富士写真フィルム)の協力をいただき、写真家の元田敬三さんをお迎えしての合評会になりました。元田さんの講評(青字部分)をお伝えします。

◎2017年11月19日 早稲田大学写真部の写真講評会を終えて。

 1枚の写真で何かを語る写真もあれば、複数枚の写真の束として見せる写真もあり、とても見応えのある写真ばかりで、ついついお話が盛り上がり濃密な数時間でした。みなさん、画作りだけではなく、自分のアイデンティティーを大切にし、『自分とは何者なのか?』という永遠の問いに真剣に向かわれている感じにとても共感しました。

 単写真の場合は一枚の爆発力がとても大切で、論理ではなく、その写真の前に立つと自分が後ろにのけぞってしまうような『写真の強度』を持つことが大切です。徹底的に美しかったり、被写体が猛烈に素晴らしかったり、構図が完璧だったりという風に。組み写真は、水増しせずにしっかりと見せたい写真だけを的確にセレクトし見せることです。それには自分の写真を言語化しなければならず、タイトルやキャプションが決まるとセレクトも決まってきます。論理的に言語化したり、直感で言葉が飛び込んで来たりといろんなケースがありますが、感覚やなんとなく好きだからという理由で選んではいけません。

 また写真とは画であると同時に、(撮影時には)『行為』でもあります。
撮影する時は「撮らせてもらっている」ということを、いつも忘れずに謙虚に且つ大胆に。相手が人でもモノでも風景でもしっかり踏み込む事が大切です。撮りたい距離やタイミングや構図で撮らなければうまくいきません。路上でのスナップショットでも、歩いていて撮影する瞬間は一瞬でも静止して、ファインダーをしっかり覗いて瞬時に構図を決定することが必要です。また人物を撮る場合は、相手も人間ですので、仕草や目線や時には挨拶を交えてコミュ二ケーションすることも必要かと思います。その人との距離感や仕草のパターンを自分なりに作る、意識するとそれほど難しいことではないと思います。

上記が講評時にお話したことです。
自分が撮った写真にはいつもその時の自分が写っています。
自分に嘘をついていないか?
被写体にしっかりと正面から向かえているか?
写真とは未来の自分への手紙です。

 最後に、写真サイズや紙選び、余白の取り方などは頭で考えずにまずはやってみるしかないです。
常にああでもないこうでもないと、手を身体を動かして実践し続けてください。

次回お会いするのを楽しみにしています。

                                    元田敬三

 合評会は元田作品を見ることから始まった。元田さんはデジタルと乳剤のプリントを持ってきて下さり、以下のことなどについて柔らかい関西弁で熱く語っていただいた。

 撮影する時、人物と背景については十分考えること、いろんな物を入れ込んで街が写っているような写真にしたいこと、レンズは35ミリが基本であること、日中でもストロボを使うこと、露出は3、4段オーバー露出で撮ること、従って暗室作業が大変なこと、撮ったら必ずプリントして見ること、写真を言葉にすること、キーワードが浮かぶとセレクトが可能になること、写真を始めて人生が変わって、始める前の記憶はほとんど無いとのこと、などについて語った。

 元田さんと写真との関係が抜き差しならないもののように感じた。

★Sさんの写真

 たくさんの写真が並べられた。韓国で、熊本で、東北で、東京で撮られたものがあった。 元田さんは「面白い写真」と「撮らされている写真」に分けて厳しいアドバイスを送った。

・元田さんが【おもしろい写真】としたもの。

・元田さんが【撮らされている写真】としたもの。

 以上は韓国で撮られたもので、下は被災後の熊本(撮影者の故郷)で撮られたもの。

 私は震災後二日三日後に熊本へ入った(慌ただしかったので正確にいつかは記録が無い)。当時熊本空港は閉鎖されていたため、福岡空港に降り立ち、その後陸路で熊本まで南下した。途中の道は大変混雑しており、六時間ほどかかった。

 実家に到着時、電気は既に復旧しガスはプロパンであったため使えたが、水道は復旧していなかった(我が家の水道がまともに稼働し始めたのは本震から5日ほど過ぎたころであった)。

 家の応急修理や食糧確保に5日ほど費やした後、初めて家屋の倒壊など被害が大きかった益城町へ足を運んだ。町の中心地区は正にがれきの山と化していた。

 その後断層が地表に露出した地区へ向かった。田んぼに亀裂が走る光景を目にし、言葉を失う。非現実的光景で性質の悪い理科実験にさえ見えた。撮影以外出来ることが無いのでシャッターを押した。

 その後GW手前まで熊本に滞在していたわけだが、心残りなことがある。

 私は当時(今も、だが)未熟で物的被害や写真にする際にインパクトが強いものにばかり目を向け人の心に寄り添うことを理解していなかった。校区の中学校は一時避難所になっていたのにもかかわらず、足を運ばなかった。もし、あの時足を運べば、と後悔の念に堪えない。恐らく今後一生。

 さて、その後の復興だが、2017年夏に復旧した阿蘇へのルートの一つ、長陽大橋など道路の復旧や、倒壊した家屋の片付けなど“目に見える範囲”では確実に復興が進んでいる。観光客など一時滞在の方には復旧は順調に進んでいるように見えるはずだ。今後は仮設住宅からの転居や、心理的ダメージの療養など解決に時間を要する問題が更に顕著化するだろう。インフラの復旧などは見栄えがいいが、こうした問題に向き合わないと復興はありえない。

 取材の中でおじさん二人に怒りをぶつけられたことがあった。報道陣の取材に不満があるようで、これ見よがしに私に不満をぶつけてきた。最初は丁寧に応対していたのだが「他所者に何が分かるんだ!」と怒鳴られた際、私は少々イライラしてしまい「我が家も被害を受けましたが何か?」と言い返した。するとおじさん二人はしどろもどろになりどこかへ行ってしまった。後から思い返せば、やり場のない感情のはけ口を求めていた一面もあるだろう。しかし、あの被害を受けて感情を押し殺すなど土台無理な話である。そういった点も受け入れつつ取材する必要性を感じた。

 震災から一年半以上が過ぎ復興は道半ばではある。今後も現実に目を向け、時には寄り添い、時には客観的に取材を継続したいと思う。(S)

 産経新聞で被災地の連載するために現地に月に2、3回行ってて、いろいろ見たりして思い入れがすごいあるんですけど、この写真とかも判るけど簡単に撮ってしまっている。どういう立ち位置で写真撮るのか決めないといけないし、記録として撮るのか、作品を作る気持ちなのか、自分の意見とか、気持ちを入れるのか入れないのかとか、そのスタンスみたいなものが行ったり来たりしている。

 東北を撮影してて一番印象に残ってんのは、海沿い走ってたらおじいちゃんと女の子が散歩してて、向こうから話しかけてきて、女の子が3・11生まれやったんですよ。原発のすぐ近くの病院で生まれてて。それがきっかけになって、数ヶ月後に撮影させてもらったし、そういう出会いもあるし、現地の人と話して、実際生活している人の方がドンと来るから。

 熊本が地元なら話しかけて撮らなくっちゃ。知りたい、知りたい、教えてくれ、教えてくれ!!地元の熊本の写真にも人居てないもん・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

★Fさんの写真 『見上げた先に』

 

 超広角14mmで撮られた見事な紅葉の写真。「樹の幹は明るくしないで黒くて良かった」との意見もあった。

 枝が血管みたい。肉眼を超えてて、すごいな〜と思いました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

★F・cさんの写真 『みなもの鏡』

 

 不思議な写真だった。川に映った風景だそうだが、まるで鏡のような水面に先ず驚いた。

 何層にもレイヤーがかかっているみたいでおもしろい。もっと手前にいろんなものが入ってても良かった。手すりの色が紫で強い。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

★Tさんの写真

『馬堀海岸にて』この暗部が重たすぎるから、もうちょっと調子を出しても良いのかな。微妙に写ってる感じを残した方が良かった。風吹いてるし、動きもあるけど、少し待って見て車とか別の要素を入れることも考えて見ても良かった。

『朝ぼらけ』:月が無かったら、なんや不思議な感じがしておもしろい。宇宙っぽい。キャプション次第ではいろんな見せ方ができる写真。タイトルも皆んなが自由に見れるものにしたら良かった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

★T・yさんの写真 『特別席』

 

 光も構図も良い。写真っぽい。色もキレイ。大きくして直接フレームにマウントしても良い。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

★Iさんの写真 『2017.08.01』

『2017.08.01』

 小ぶりの写真を4枚付けたことが「早稲田祭展」の時から話題だった。石巻の「日和山」の近くで撮られた作品。

 1枚でバシッと決まっているが、小ぶりの写真を同時に展示したのは、何かしよう、見てもらおうという姿勢が良い。象徴的でいろいろ考えが巡る。暗部の調子を出して、もっとフラットにしても良い。

これからも見続けるかどうかだね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

★Nさんの写真

何だか黄色っぽい写真だった。フィリピンで撮られたもの。門構えに展示されていた。

『マニラ 線路脇に住む人々』:題材がメチャクチャおもしろい。あとは、やっぱり向こうの人を巻き込んで、これは若干こっち向いたりしてるけど、こんな感じで、もっと「撮ってるんだよ!!」ということを主張して、だんだん馴染んできて、皆んなにいろんなことをやらせるというか、相手を自分の撮影に巻き込んで行けば、すごいおもしろいんじゃないかな。やっぱり、ちょっと腰引けてるんじゃ無いかな。まだ行けそうな気がするけどね。

 先ず、仲良くなること。背景とか状況は完璧。後はこの人たちの在り方。一回OKしてもらうこと。1枚撮って、また、後で撮るとか。これは完璧に仕上げて欲しいな。撮れた!!って思うまでは図々しく行って欲しい。行ってるだけですごいけど、ちょっと淡白だった。もっと人間に興味をもって欲しくって、同じ人間だから。もう一回行ってくるしか無いね。

『釜ヶ崎 日雇い労働者の街』book

 『釜ヶ崎 日雇い労働者の街』:ぜんぜんちゃんと撮れてるやないですか。シッカリと向かい合って。よく見てる。取りたい距離で撮ってるし、人の顔見て撮ってるし。要らないことはしないというか自分の意思は抑えていて、ちょうど良い距離感!!

 僕も写真始めてから行くようになって、写真なんか撮れない雰囲気があって、覚悟して撮らないと撮れないし。

『crossing the moon』

 御見事!!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

★T・mさんの写真

『saint-denis』:インスタとかフェイスブックでは皆んなイイネしてくれるけど、本にした時はどうか?自分が撮った写真を自分が見てビックリしないとOKにはしないとか、自分にとっての驚きがない感じがする。自分がビックリした時心が動くから、それを見た人はもっと驚く。こう撮ればこうなるという上手い人が撮ったような写真。

『mon copin』

『mon copin』:人物撮る時に人物ほとんど見てなくて背景ばっかり見てて、その人の後ろに誰か居てないかなとか、逆にあの人が入ったら面白いから待つとか、背景と光には気をつけてる。行為として面白くて撮りたい人撮れたけど、後ろにこの人が居なかったらなとか、そういうのでボツにすることが多い。

旧市街の角で

『旧市街の角で』:これ、ネガアンダーでしょう。黒がどこにも無い。でも、素敵だけど。このユルイ感じも、カッコ良いけど。構図とかも。表情とか距離感はめちゃくちゃ良い感じだけど、もったいない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

★I・kさんの写真 『つつじ畑で遊水を』

画像加工技術を駆使して水の波紋の「3D化」に挑戦したが、「大して面白く無い写真」とは撮影者の弁。

 デジタルのことは判らないんですが、どこが大変だったんですか?見せよう、見せようとしていることはわかるけど、限りなくいろいろやって、最終的なイメージがあるんでしょう?「大して面白くない写真」って言ったけど、人に見せる時に、それはどういう風に思うんですか?自由な発想で、もっと変なことして欲しいな。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

一旦中座したため、集合写真には写っていない木内さんも合流して、高田の馬場の中華飯屋での打ち上げ会は大いに盛り上がった。