The Japan Timesの“timeout”欄に大きく掲載されたこの小川忠博氏の記事をたまたま知ることとなって、興味本位に読みはじめました所、その量、内容共小生にはかなり厚く重い、しかし、難しいが大変興味ある内容にひかれ拙訳でも最後まで知りたいと思うに至り、時に助けを得ながら、何とか訳しました。
それを、学生時代の十余名の写真部仲間に
「後輩の小川君(昭和40年卒)が30余年間に亘り正にコツコツと積み上げた縄文時代の人工遺物(土偶、土器、石器)に懸けてきた成果(「縄文美術館」等)が、西洋の考古学者( http://jomonarts.com/ Amana ChugHae Oh, PhD)や研究者(Edan Corkill;記事執筆者)の目にとまり茲に詳しく紹介された。彼の成果(物)に対する背景・意図並びに価値・論評等も見えて大変興味深い内容と思われるので、先ずは拙訳を読んで意見下さい」
とメールを入れた所、
彼と同級のA氏からは「小川氏とは40年以上の友達だが、これほどの仕事をしていたとは今まで知らなかった」、又B氏他からは「小川氏の仕事がどれほどのものかこの記事で良くわかった。それに目を付けたジャパンタイムズの執筆者も素晴らしい。ついては、我々仲間内だけでなく、われら早大写真部OBの集まりである稲門写真クラブの皆さんにもこの記事の事を紹介してはどうだろうか」と云った意見がありました。
これらの意向を受けて稲門写真クラブの事務局幹事宛、投稿としてこの記事訳文の推敲も含めて紹介(HP掲載)の検討をお願いした次第です。
昭和38年卒・辻 久男
《縄文時代に新たな光を当てる写真家 》
《 Camera artist casts new light on Jomon millenia 》
副題:小川忠博の主要目標は時間と理解との隔たりに橋渡しをすること;今日の日本人とさほど変わらない数千年前の人々を知る機会をつくることである 。
(Tadahiro Ogawa’s primary goal is to bridge the gulf of time and comprehension;
to create a window through which to behold a people many thousand of years ago who were not so different from Japanese today )
The Japan Times < timeout >Sep 29 2013 STAFF WRITER Edan Corkill
日本史における縄文時代は時のかなたに覆い隠されているので、その神秘を解き明かそうとする試みは先史時代の考古学にまでさかのぼらなければならない。
しかし、考古学愛好家や専門家が2千年前?1万年前の縄文土器や石器を過去100年にわたって発掘し研究してきているので、パズル(謎)の断片は徐々に継ぎ合わされてきている。
たとえばわずか6年前に、極めて大きな豆やそれらを縄文時代の壺の粘土で包みこんでいる穴が発見され、大昔この島々に住んでいた人々が植物を栽培していたという証拠となった。
このような新しい見解は、ふつうは考古学と科学の検証の結果もたらされるものであるが、この謎めいた時代を明らかにするために一役買った別の試みがあった。写真である。
小川忠博は縄文時代の遺物を写真に撮り続けて30年。既に手元には約3万点もの写真がアーカイブされている。彼は実際に紀元前1万2千年?紀元前300年頃と推定される縄文時代の品々が収蔵されている全国の500館以上のほとんどすべての博物館で写真撮影をしてきた。
協力団体に対しては撮った写真の無料使用を認めるという小川の方針により、彼の作品はこの分野で至るところで使用され、数えきれないほどの本、ポスター、学術研究書の表紙を飾っており、地方の電話帳の表紙にさえなっている。
入手した資料から判断すると、これらの博物館は、無報酬で写真を提供する写真家のクレジットを入れることにあまりこだわらないようだが、それにもかかわらず彼の作品だということは容易に分かる。まず第一に、小川の古代縄文土器の写真はその陰影、ハイライトや奥行きの鮮やかで印象的なトポグラフィー画像を描いている。
発見された物の考古学専門資料としての記録は優先されるだろうが、たとえフラットライティング(平面的で遠近感のない照明)でも、小川は、あたかもそれらの物が同じ部屋にあるかのように、手をさし出して、触れて、感じることのできる物として質感や外見的特徴を写真の中に巧みに取り入れている。彼の写真はそれらが日常的に存在した時代、崇められた古代の単に遺物としてではなく、実在のものだった時代にいとも簡単に私たちを引き戻す。 それは大変な偉業である。なぜならそれらの多くはあまりに奇妙で空想的次元からやってきたようにみえるからである。
例えば豪華な装飾、蛇や蛙などの動物や私たちの眼には全く抽象的にみえる装飾が施された高さ60?70cmの調理用大鍋を、今日の私たちはどのように考えるだろうか。あまり実用的でない品々もある:動物や人の立体像。土偶と呼ばれるそれらの小さな立像の中には幅広の三角頭と大きな目を持っていて、人というよりは空想科学小説のエイリアン(宇宙人)により共通点があるように見えるものもある。
世代を経るにしたがって、縄文土器はその奇抜さを人々の心に特徴づけてしまったようだ。
20世紀半ばの芸術家、岡本太郎は縄文土器に”新しい"日本独自の視覚表現として主張する拠り所を見てとり、それを彼の表現に取り入れた。
しかし写真家の小川にとっては、そのような縄文文化の意図的な神秘化は、あまり好ましくない遺産であった。当時これらの島に住んでいた人々が、今の自分たちとは全く違う別世界に属していたという考えを現代人の心に植えつけるものだったからだ。 (下の写真:「縄文美術館」より転載)
精力的な小川の仕事の主な目的は、時間と理解との隔たりを埋めることである。今日の日本人とさほど違わない何千年も前の人々を知る機会をつくることである。
70歳の小川は言う。
「我々日本人はこの人々と血のつながりがあり、今日私たちが生きている自然環境と同じ中で彼らは普通に生活をし、狩りをし、このような物をつくったのです」「彼らは希望や恐れを持ち、複雑な生活環境の中で生きていました。彼らが残したものを注意深く観察すれば、それらが何であったかわかるでしょう」
長野県の山間にある松本市立考古博物館の展示室には、数多くの土偶が展示されている。高さ10cmから20cmの粘土製の頭部像や装飾用小立像が大型の土鍋や石器などの縄文遺物と一緒にガラスケースの中に並んでいる。 粘土でできていて、長野の谷底の浅い土の中に7000年ものあいだ埋れていた土偶は、他の美術館で見る遺物と同じくらいしっかりしていて良好な状態である。温度調節も緻密な湿度調整さえも必要としなかったからである。
「平日はさほどお客さんがいらっしゃらないので、使いたいと思う展示物をかなり沢山取り出すことができます」と博物館キューレーターの澤柳秀利は小川に説明する。小川は考古学者の友人が企画している本に使用する土偶の写真を撮りに来ていた。
「2,3年前に撮影したものは白黒写真でした。今日は、これとあれと後ろのあの列のものを撮るつもりです」
博物館助手が陳列棚を開けてそれらの作品を取り出し、裏紙付きのトレーに移し替え始めた。
小川は別の部屋に移動した。4個の大きなプラスチック枠箱の中に数百体以上の小さな土偶が入っていて、全部、箱入りの妙な形のチョコレート菓子のように薄紙の上に幾列にも並んでいる。しかし先史時代のお菓子(土偶)は、遠い昔の人間の暮らしの中での役割を今もって学識者にさえ知られていない。宇宙から来た生物に似ている土偶もたくさんあるが、妊婦、出産、子守りをする女性であると容易に分かるものもある。
撮影に同行していた長野県の浅間縄文ミュージアムの堤隆館長は、「縄文人たちの寿命は大体30歳でしたから、出産と育児は彼らの生活の中心的出来事でした。ですから当然のこととして多産と生殖能力を象徴する像を作ったのです」と説明する。その他の粘土の小立像は縄文人たちが狩りをした場所の近辺にいた猪、熊、鮭などの動物たちを描写している。くすんだ白い箱の中で質感を消す強い光があたった土偶は子供のようにも見えるが、手でこねた粘土の塊のようにも見える。
最適な照明の下で、正確なカメラアングルで撮影された時、それらの土偶がよみがえってくる。
「私の写真によって、縄文時代の遺物が一般の人々に初めて紹介されることになります。ですから一般の人々が興味を持つように、写真が目に焼きつけられるようにドラマチックなものでなければなりません」
博物館の研究室を使用できることになって、小川は慣れた手捌きでそこを簡易撮影スタジオに転換させた。その手際の良さは、経験豊かなアシスタント、小川夫人である奉子 さんのお陰だった。彼女は撮影手順をよく知っているので、彼が要求する前に機材類を手渡すことができるし、彼女自身で大型の撮影用背景幕をセットすることもできる。土偶に適したスタジオを作るために広げた折り目なしの大きな紙のシートを支度しつつ、「家内工業ですよ」と彼女は微笑んだ。
最初に撮影した作品は小さな頭部像で、縄文後期のものだと小川は言う。
注意深く紙の上に置いてから、求める光の効果が得られるように多数の照明と鏡を数分間かけて慎重に調整した。突然、なんの変哲もない粘土の塊が生き生きとし始める。陰影が堂々とした額と真直ぐな鼻を際立たせる。
二番目の作品は実際には二個あって、両方とも小立像の半身だが、小川は写真を撮るために再構築することに決めた。
「これはこのように二つに割れた状態で発掘されたので、考古学者にとっては壊れたまま展示されることが大事です。しかし私にとっては、壊れた遺品としてではなく、実際の生活でどのようであったかを再現することが大切なことなのです」
そのために小川は道具箱の中の針金枠を探すことになる。その針金枠は木製の底板にくっついていて、小立像が枠からはみ出ないよう支えるために曲げてあった。
「博物館から遺物の図形を前もって送ってもらって、それら特注の針金枠をあらかじめ作ることが出来るようにしています」
小川は、慎重に立像の一部と他の部分とのバランスをとり、両者とも針金枠にもたれかかせて、それから両手を手前に引いて机を軽く数回叩いた。小立像は全く動かなかった。
「倒れないようにする一番いいやり方はこれなんですよ」と再度、照明を調節しながら言った。
(下の写真:「縄文美術館」より転載 スリットカメラで撮影)
特急列車でのある出来事とスリットカメラとして知られる独創的な撮影装置を経て、小川は縄文の世界に入る事になった。報道雑誌の写真記者として仕事をしていた1980年代初期、友人から本の企画に使うための列車撮影の相談を受けた。
「いわゆるブルートレインブームと呼ばれた時代のまっただ中で、列車とりわけJRの寝台特急ブルートレインが子供たちの間で流行っていました。スリットカメラを使えば列車全体が撮影できることを提案しました」
普通のフィルムカメラと違って、たぐい稀なその装置には縦長の狭い隙間があり、その後ろでシャッターが開いている間にフィルムが一定速度で通過する。カメラ自体あるいは被写体がフィルムが通り抜ける間動かなければ、その被写体全体が一連の連続写真として描写される。
小川のアイディアは、一つの画像の中に長い列車全体を描写し、それを蛇のように長く折りたたみ綴じ込みページに印刷することであった。きっと大勢の若い鉄道ファンをわくわくさせるだろうと想像した。そのとおりになった。
「その仕事は本当に忙しかったですよ」
高さ15cmx長さ100cmの綴じ込みページを広げながら彼は笑った。
問題は、そのプロジェクトが終了したあとだった。スリットカメラを使う機会があまりなかったので、違う視点から考えてみた結果、列車のような長い物から壺のような丸い物へと小川の関心が移ることとなった。被写体を回転させて写真を撮れば、その外周全体がひとつの画像の中にとらえられるのである。
「最初はギリシャの飾り壺のようなものを試してみましたが、すぐに縄文土器の魅力にひきつけられました。その装飾はどの部分をとっても同じでなかったし、とても深いものを持っているように感じました」
縄文土器は土偶装飾小立像に加えて、派手に装飾された巨大な壺や水差しで知られている。小川は、早速どのようにして撮影するか実験を始めた。そして驚いたことに、考古学団体の反応が極めて好意的である事を知った。
「これまで縄文土器の全周の鮮明な写真を撮ることに成功した人はいませんでした。これほど鮮明に全部の模様を見ることが出来るということが、土器研究を本当の意味で前進させました」と山梨県甲府市教育委員会所属の考古学者の小野正文は説明する。
最初は回転盤の上に撮影する被写体を置いて試したが、そのような方法は学芸員や収集家たちに不安感を与えていたことに小川は気がついた。彼は撮影する被写体を安全に設置できる中央固定台座とその周囲をカメラが回転する仕掛け装置を考案した。
長野県塩尻市立平出博物館での撮影中に、ジャパンタイムス記者に小川が実演して見せた時、その極めて独創的な特徴は、カメラが被写体の周りを回る事ではなく、カメラと鏡と白い背景板全部が被写体の周りを回転し、それぞれが中央にある被写体との正三角形の頂点に位置するというやり方だということがわかった。
カメラは被写体そのものを狙っているのではなく、鏡に映った影像を狙っている。そうすることによってカメラと被写体により長い距離を確保することができ、よって大きな被写体でもフレームの中におさまるようになる。
また背景板の配置に関しても、常に鏡に映っている被写体の背後にくるようになっている。一方でカメラと一緒に回転するのは照明装置である。
したがって、カメラとライトが被写体の周りを回っている時、カメラが実際にとらえている狭い点はどの瞬間でも常に同じ角度で照らされていることになる。
「その結果、写真の幅全体に対していつも同じ長さの陰になるんです」と少々困惑している質問者に小川は説明する。その画像は装飾の各部分の奥行がすぐに分かるので、被写体の詳細な研究のためにとても貴重であることをつけ加えた。
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