今回は、昭和63年卒の木内格志さん(富士写真フィルム)の協力をいただき、写真家の元田敬三さんをお迎えしての合評会になりました。元田さんの講評(青字部分)をお伝えします。
◎2017年11月19日 早稲田大学写真部の写真講評会を終えて。
1枚の写真で何かを語る写真もあれば、複数枚の写真の束として見せる写真もあり、とても見応えのある写真ばかりで、ついついお話が盛り上がり濃密な数時間でした。みなさん、画作りだけではなく、自分のアイデンティティーを大切にし、『自分とは何者なのか?』という永遠の問いに真剣に向かわれている感じにとても共感しました。
単写真の場合は一枚の爆発力がとても大切で、論理ではなく、その写真の前に立つと自分が後ろにのけぞってしまうような『写真の強度』を持つことが大切です。徹底的に美しかったり、被写体が猛烈に素晴らしかったり、構図が完璧だったりという風に。組み写真は、水増しせずにしっかりと見せたい写真だけを的確にセレクトし見せることです。それには自分の写真を言語化しなければならず、タイトルやキャプションが決まるとセレクトも決まってきます。論理的に言語化したり、直感で言葉が飛び込んで来たりといろんなケースがありますが、感覚やなんとなく好きだからという理由で選んではいけません。
また写真とは画であると同時に、(撮影時には)『行為』でもあります。
撮影する時は「撮らせてもらっている」ということを、いつも忘れずに謙虚に且つ大胆に。相手が人でもモノでも風景でもしっかり踏み込む事が大切です。撮りたい距離やタイミングや構図で撮らなければうまくいきません。路上でのスナップショットでも、歩いていて撮影する瞬間は一瞬でも静止して、ファインダーをしっかり覗いて瞬時に構図を決定することが必要です。また人物を撮る場合は、相手も人間ですので、仕草や目線や時には挨拶を交えてコミュ二ケーションすることも必要かと思います。その人との距離感や仕草のパターンを自分なりに作る、意識するとそれほど難しいことではないと思います。
上記が講評時にお話したことです。
自分が撮った写真にはいつもその時の自分が写っています。
自分に嘘をついていないか?
被写体にしっかりと正面から向かえているか?
写真とは未来の自分への手紙です。
最後に、写真サイズや紙選び、余白の取り方などは頭で考えずにまずはやってみるしかないです。
常にああでもないこうでもないと、手を身体を動かして実践し続けてください。
次回お会いするのを楽しみにしています。
元田敬三
合評会は元田作品を見ることから始まった。元田さんはデジタルと乳剤のプリントを持ってきて下さり、以下のことなどについて柔らかい関西弁で熱く語っていただいた。
撮影する時、人物と背景については十分考えること、いろんな物を入れ込んで街が写っているような写真にしたいこと、レンズは35ミリが基本であること、日中でもストロボを使うこと、露出は3、4段オーバー露出で撮ること、従って暗室作業が大変なこと、撮ったら必ずプリントして見ること、写真を言葉にすること、キーワードが浮かぶとセレクトが可能になること、写真を始めて人生が変わって、始める前の記憶はほとんど無いとのこと、などについて語った。
元田さんと写真との関係が抜き差しならないもののように感じた。
★
★Sさんの写真
たくさんの写真が並べられた。韓国で、熊本で、東北で、東京で撮られたものがあった。 元田さんは「面白い写真」と「撮らされている写真」に分けて厳しいアドバイスを送った。
・元田さんが【おもしろい写真】としたもの。
・元田さんが【撮らされている写真】としたもの。
以上は韓国で撮られたもので、下は被災後の熊本(撮影者の故郷)で撮られたもの。
私は震災後二日三日後に熊本へ入った(慌ただしかったので正確にいつかは記録が無い)。当時熊本空港は閉鎖されていたため、福岡空港に降り立ち、その後陸路で熊本まで南下した。途中の道は大変混雑しており、六時間ほどかかった。
実家に到着時、電気は既に復旧しガスはプロパンであったため使えたが、水道は復旧していなかった(我が家の水道がまともに稼働し始めたのは本震から5日ほど過ぎたころであった)。
家の応急修理や食糧確保に5日ほど費やした後、初めて家屋の倒壊など被害が大きかった益城町へ足を運んだ。町の中心地区は正にがれきの山と化していた。
その後断層が地表に露出した地区へ向かった。田んぼに亀裂が走る光景を目にし、言葉を失う。非現実的光景で性質の悪い理科実験にさえ見えた。撮影以外出来ることが無いのでシャッターを押した。
その後GW手前まで熊本に滞在していたわけだが、心残りなことがある。
私は当時(今も、だが)未熟で物的被害や写真にする際にインパクトが強いものにばかり目を向け人の心に寄り添うことを理解していなかった。校区の中学校は一時避難所になっていたのにもかかわらず、足を運ばなかった。もし、あの時足を運べば、と後悔の念に堪えない。恐らく今後一生。
さて、その後の復興だが、2017年夏に復旧した阿蘇へのルートの一つ、長陽大橋など道路の復旧や、倒壊した家屋の片付けなど“目に見える範囲”では確実に復興が進んでいる。観光客など一時滞在の方には復旧は順調に進んでいるように見えるはずだ。今後は仮設住宅からの転居や、心理的ダメージの療養など解決に時間を要する問題が更に顕著化するだろう。インフラの復旧などは見栄えがいいが、こうした問題に向き合わないと復興はありえない。
取材の中でおじさん二人に怒りをぶつけられたことがあった。報道陣の取材に不満があるようで、これ見よがしに私に不満をぶつけてきた。最初は丁寧に応対していたのだが「他所者に何が分かるんだ!」と怒鳴られた際、私は少々イライラしてしまい「我が家も被害を受けましたが何か?」と言い返した。するとおじさん二人はしどろもどろになりどこかへ行ってしまった。後から思い返せば、やり場のない感情のはけ口を求めていた一面もあるだろう。しかし、あの被害を受けて感情を押し殺すなど土台無理な話である。そういった点も受け入れつつ取材する必要性を感じた。
震災から一年半以上が過ぎ復興は道半ばではある。今後も現実に目を向け、時には寄り添い、時には客観的に取材を継続したいと思う。(S)
産経新聞で被災地の連載するために現地に月に2、3回行ってて、いろいろ見たりして思い入れがすごいあるんですけど、この写真とかも判るけど簡単に撮ってしまっている。どういう立ち位置で写真撮るのか決めないといけないし、記録として撮るのか、作品を作る気持ちなのか、自分の意見とか、気持ちを入れるのか入れないのかとか、そのスタンスみたいなものが行ったり来たりしている。
東北を撮影してて一番印象に残ってんのは、海沿い走ってたらおじいちゃんと女の子が散歩してて、向こうから話しかけてきて、女の子が3・11生まれやったんですよ。原発のすぐ近くの病院で生まれてて。それがきっかけになって、数ヶ月後に撮影させてもらったし、そういう出会いもあるし、現地の人と話して、実際生活している人の方がドンと来るから。
熊本が地元なら話しかけて撮らなくっちゃ。知りたい、知りたい、教えてくれ、教えてくれ!!地元の熊本の写真にも人居てないもん・・・。
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★Fさんの写真 『見上げた先に』
超広角14mmで撮られた見事な紅葉の写真。「樹の幹は明るくしないで黒くて良かった」との意見もあった。
枝が血管みたい。肉眼を超えてて、すごいな〜と思いました。
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★F・cさんの写真 『みなもの鏡』
不思議な写真だった。川に映った風景だそうだが、まるで鏡のような水面に先ず驚いた。
何層にもレイヤーがかかっているみたいでおもしろい。もっと手前にいろんなものが入ってても良かった。手すりの色が紫で強い。
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★Tさんの写真
『馬堀海岸にて』:この暗部が重たすぎるから、もうちょっと調子を出しても良いのかな。微妙に写ってる感じを残した方が良かった。風吹いてるし、動きもあるけど、少し待って見て車とか別の要素を入れることも考えて見ても良かった。
『朝ぼらけ』:月が無かったら、なんや不思議な感じがしておもしろい。宇宙っぽい。キャプション次第ではいろんな見せ方ができる写真。タイトルも皆んなが自由に見れるものにしたら良かった。
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★T・yさんの写真 『特別席』
光も構図も良い。写真っぽい。色もキレイ。大きくして直接フレームにマウントしても良い。
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★Iさんの写真 『2017.08.01』
小ぶりの写真を4枚付けたことが「早稲田祭展」の時から話題だった。石巻の「日和山」の近くで撮られた作品。
1枚でバシッと決まっているが、小ぶりの写真を同時に展示したのは、何かしよう、見てもらおうという姿勢が良い。象徴的でいろいろ考えが巡る。暗部の調子を出して、もっとフラットにしても良い。
これからも見続けるかどうかだね。
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★Nさんの写真
何だか黄色っぽい写真だった。フィリピンで撮られたもの。門構えに展示されていた。
『マニラ 線路脇に住む人々』:題材がメチャクチャおもしろい。あとは、やっぱり向こうの人を巻き込んで、これは若干こっち向いたりしてるけど、こんな感じで、もっと「撮ってるんだよ!!」ということを主張して、だんだん馴染んできて、皆んなにいろんなことをやらせるというか、相手を自分の撮影に巻き込んで行けば、すごいおもしろいんじゃないかな。やっぱり、ちょっと腰引けてるんじゃ無いかな。まだ行けそうな気がするけどね。
先ず、仲良くなること。背景とか状況は完璧。後はこの人たちの在り方。一回OKしてもらうこと。1枚撮って、また、後で撮るとか。これは完璧に仕上げて欲しいな。撮れた!!って思うまでは図々しく行って欲しい。行ってるだけですごいけど、ちょっと淡白だった。もっと人間に興味をもって欲しくって、同じ人間だから。もう一回行ってくるしか無いね。
『釜ヶ崎 日雇い労働者の街』:ぜんぜんちゃんと撮れてるやないですか。シッカリと向かい合って。よく見てる。取りたい距離で撮ってるし、人の顔見て撮ってるし。要らないことはしないというか自分の意思は抑えていて、ちょうど良い距離感!!
僕も写真始めてから行くようになって、写真なんか撮れない雰囲気があって、覚悟して撮らないと撮れないし。
御見事!!
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★T・mさんの写真
『saint-denis』:インスタとかフェイスブックでは皆んなイイネしてくれるけど、本にした時はどうか?自分が撮った写真を自分が見てビックリしないとOKにはしないとか、自分にとっての驚きがない感じがする。自分がビックリした時心が動くから、それを見た人はもっと驚く。こう撮ればこうなるという上手い人が撮ったような写真。
『mon copin』:人物撮る時に人物ほとんど見てなくて背景ばっかり見てて、その人の後ろに誰か居てないかなとか、逆にあの人が入ったら面白いから待つとか、背景と光には気をつけてる。行為として面白くて撮りたい人撮れたけど、後ろにこの人が居なかったらなとか、そういうのでボツにすることが多い。
『旧市街の角で』:これ、ネガアンダーでしょう。黒がどこにも無い。でも、素敵だけど。このユルイ感じも、カッコ良いけど。構図とかも。表情とか距離感はめちゃくちゃ良い感じだけど、もったいない。
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★I・kさんの写真 『つつじ畑で遊水を』
画像加工技術を駆使して水の波紋の「3D化」に挑戦したが、「大して面白く無い写真」とは撮影者の弁。
デジタルのことは判らないんですが、どこが大変だったんですか?見せよう、見せようとしていることはわかるけど、限りなくいろいろやって、最終的なイメージがあるんでしょう?「大して面白くない写真」って言ったけど、人に見せる時に、それはどういう風に思うんですか?自由な発想で、もっと変なことして欲しいな。
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一旦中座したため、集合写真には写っていない木内さんも合流して、高田の馬場の中華飯屋での打ち上げ会は大いに盛り上がった。