【訃報】平成4年卒 伊藤諭さんが亡くなりました。

皆さま突然のご連絡
失礼します。
「ロン」さん、こと
92年卒の伊藤諭先輩が逝去されました。
御通夜・告別式は以下の通りです。
お通夜:8/12(木)18-19時
告別式:8/13(金)11時-12時
場所:ロイヤルシティホール洗足池
〒145-0063
東京都大田区南千束3-32-2
03-3726-1194
https://rch-senzokuike.jp/
喪主:伊藤亜紀子さま
以下、同期の澤秀雄先輩のところに
奥様から届いたメッセージを転載します。
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大変ご無沙汰しております。伊藤諭の妻の亜紀子です。突然のご連絡失礼します。
実は8月7日に夫が他界しました。サイクリング中に意識を失って転倒し、外傷はなかったものの、そのまま意識回復することはありませんでした。心マ、人工呼吸、AEDからの救急搬送となりましたが、意識回復することはありませんでした。急性循環不全という診断になりました。
よく学生時代の話で澤さんの話をしていたこともあり、連絡させていただきました。
コロナ禍ということもあるのですが、なるべく沢山のお友達にサトシの顔を見てもらいたいと思い、連絡させていただきました。お通夜を12日、告別式を13日に予定しております。コロナ禍ということもあって、会食などはありません。もしお時間取れそうであれば、お越しいただけるとありがたいです。また、不躾なお願いで恐縮ですが、他のお友達にもご連絡いただけるとありがたいです。何卒よろしくお願いします。
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私にとってはひとつ上の先輩で、同じ埼玉出身で、帰る方向一緒だったこともあり、ある時期は、ほぼ毎日、伊藤先輩と飲んだくれていたこともありました。
その後、偶然、同じ会社で働くことになりましたが、部署も建物も違い、勤務時間も違ったため、最近は時折、会社の前の路上ですれ違うくらいでした。
そんなときの、シャツの上からでもわかるくらい鍛えた体に、文庫本を片手に持って軽快に歩き、日焼けした笑顔で、「ようっ」と片手をあげる元気な姿しか記憶になく、あまりに突然のことで、驚きを通り越して呆然とするばかりです。
ご冥福をお祈り申し上げます。

平成5年卒 内田浩平

【訃報】平成1年卒・齋藤宗孝さんが亡くなりました

突然の悲報に接し、未だに信じられず、ただただ驚くばかりです。

思い出すのは、部室の長椅子に座って元気に喋っている斎藤君の姿です。

行けばいつも主のように座っていました。

憎まれ口を叩きながら、世話好きで、あれこれ皆の面倒を見てくれました。

鱒寿司や蒲鉾を持ってきてくれたこと、

大学に近い下宿先のお風呂を部員に時々貸してくれたこと、

学園祭前の炊き出しに部屋を提供してくれたこと、

富山ナンバーの紺色のシティで皆をあちこち連れて行ってくれたこと、思い出は尽きません。

大学時代から、見た目も声も話し方も変わらない斎藤君。

学生時代に「40年後還暦の頃には俺が一番若見えするかもしれないぞ。」と言っていた斎藤君。

証明される前にいなくなってしまいました。

早口早足で、先に旅立ってしまいました。

私達がそちらに行く時には、

「おう、お前ら遅いぞ。待ちくたびれたわ。」

などと言いながら、主のようになって出迎え、早口早足で案内してくれるのでしょう。

今は心よりご冥福をお祈り申し上げます

平1卒岡久有子

 

平成元年前後の人たちの中では先輩後輩を問わず斎藤さん(通称BBさん)にお世話になったかたは多いと思います。大学の近くに下宿があり、たまり場になっていてよくごはんはごちそうしてくれました。車を持っていて夜のドライブも連れて行ってくれたものです。あまりにも早い訃報で実感がわきません。

お悔やみ申し上げます。平3卒増田 智

お通夜・葬儀は以下の通りです。

通夜  3月22日(日) 19時〜
告別式 3月23日(月) 11時〜
場所  セレモニーホール富山
〒939-8104 富山市西番158
TEL 076-421-1194
喪主  斎藤志津枝 様

【訃報】昭和46年卒の金井靖雄さんが亡くなりました。

昭和46年卒の金井靖雄さんが、大晦日に肺炎のため亡くなっていたことが判りました。

僕の二代後の代表委員でしたが、写真部のことよりも学生運動の方に精力を注いでいたように仄聞します。文学部だった金井くんは、革マル派の襲撃を常時警戒していて、当時、商学部の地下にあった写真部部室に隣接して革マル派の拠点が有ったため、部室に近寄れなかったのかもしれません。

「いわた」で麻雀をして、深夜に馬場の方にキャンパスを抜ける時など「白谷さん、革マルがやばいから離れないでね」とすり寄って来られて緊張したものでした。

革マルにはやられませんでしたが、癌にやられてしまいました。前回の「写真の早慶戦」の時には、受付けを元気にやってくれていたのに、唐突と思える旅立ちでした(昭和45年卒・白谷達也)