七月展を見て。昭和45年卒宇野敏雄

昭和42年卒 菊池武範、昭和45年卒 宇野敏雄、平成3年卒 増田智の三人で現役生の七月展を訪問しました。

今回は宇野さんがレポートを担当してくれました。

◎現役写真部員の「七月展」を見て        昭和45年卒・宇野敏雄 

猛暑襲来中の7月13日、神田のギャラリーCORSOで開催中の現役写真部「七月展」を見に行った。自分の学生だった頃と較べて、個々の表現意識が、他者との差異性も含めどのように変わったのか、というあたりにも若干興味があった。

展示作品と作者も参加した合評会でのトークを個人的な感想も兼ねて報告しよう。

   

最初に全体の印象を簡単にいうと、全学年の部員が参加し多彩な作品を展示するとの告知通り、表現の方法と技術的水準が異なる段階のいろいろな種類の作品が見られた。昔に使われた言葉の意味での「リアリズム」の作品はほとんどなく(痕跡はわずかにあった)、日常生活で生起する事象の向こう側に、視えないヴィジョンやイリュージョンを探ろうという傾向が会場での流れをつくっていた。
 
合評会で採りあげたいくつかの作品について。 
    
《specially pea green》は、おそらく作者の意図を素通りして、「人の頭部」と「電話機の緑色」がなまなましく「物」としてのように画面に露呈している。作者が説明する美しさとかストーリー性は感じられず、むしろ写真の「フレーム(枠)」を逸脱しかかっているように見える点に、個人的には興味をおぼえた。予期せざる「外部」がヌッと現れて撮影者の通念や感性を裏切ってしまう画面が出現するのは、映像においては貴重な経験である。
    
《ほのぼの》は、表現したい内容とタイトルの言葉の意味がいささかずれている。
デジタルカメラが進化したといっても、撮影現場での人の眼と感覚が得る情報には及ばないし、また違うものでもある。感覚の世界の表現にこだわるのであれば、身体の知覚の世界とデジタルの世界の溝は、作品化の過程で丹念にデジタル技術を使って埋めるしかない。そのうえで、英国の画家ターナーが描いた後期の絵画のように、光と色と形象が溶け合った感覚の世界が表現可能なのか、デジタルでは不可能なのか、考えるのもよいと思う。ちなみに、ターナーの絵から受ける印象は、絵具で創り上げた虚構の世界(=知覚の現実化)であるにもかかわらず、極めて映像の世界に近いものである。 
  
《言葉は通じないけれど》の、少女の瞳には彼女の住む場所の光や路地が映り込んでいる。あたかも彼女の住む街=世界をその鮮やかな瞳から逆に発信しているかのように。もう1点の、少女の微笑みの中には「時間」が佇んでいる。
この瞳の光と無私の微笑みのなかには(この一瞬を捕らえる手法を磨いてゆけば)、自身のスタイルを生み出す契機があると感じた。(ただし、散文的で説明的なタイトルは一考の要あり) 
    
《神の恵み》など3点は、映画や劇画のひとコマを写真画像に移し替えたようなカッコ良さと、技術と絵作りの達者さは窺えるが、自身が想定する「絵」や「画像」の概念に「作品」が程よく納まって自足しているように見受けられた。聖書や神話のフレーズをタイトルにした「言葉」と「絵」が予定調和的に収斂してしまう「画像」には、見る者の感情をふと揺るがせたり驚かせたりする「時間性」や「物質性」がほとんど感じられないのが、もどかしく思った。  
 
《肖像たち》は、「肖像」本人を撮影する代わりに、身近に流通している「肖像」の印刷物の写真・映像を複写しマネキンの顔まで加えて、作者なりに「肖像」に関するコンセプトを更新しようという意図は感じられる。モノクロプリントにして「映像」としても成立させようと工夫しているようだ。
しかし肖像サンプルが5点しかないのでは、作者自身が考える「肖像」像はどこにあるのか、中途半端なのが残念だ。もっと多数の「肖像」写真を採集し選択して、大胆な見せ方(展示)をすれば、「肖像」というコンセプトが見る者により明確に伝わるだろう。 

アルバム作品《フェイク》は、自身が製本し、内容は写真を使って「フェイク」を考察した写真集の体裁をとっている。これは(写真集制作のモティーフとなったという)Mr.チルドレンも歌っているように♪すべてはフェイク、なのだから、この本一冊をそれこそ「フェイク」としてまるごと捏造すれば、さらに面白かっただろう。
 

 
作者不在で合評会では採りあげなかったが、《テレビっ娘》ほかの同じ作者による数点には、意味不明のものも一部あるが、画面を覆う現実という質感の奥に、見る者の視線を引きつける磁力を感じたことを記しておこう。